山田準『洗心洞箚記』(本文)291 Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.2.17

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大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その291

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

        ●      ●とうぐ        ふく 一三七 陽明先生曰く、「唐虞以上の治は、後世復                      すべからざるなり、之を略して可なり。三代以下        のつ            けづ  の治は、後世法とるべからざるなり、之を削つて        可なり。惟だ三代の治は行ふべし。然り而て世の  三代を論ずる者、其の本を明らかにせずして、而  て徒の其の末を事とす、則ち亦た復すべからず」                       てき  と、謹んで按ずるに、先生体を明らかにし用に適     だいがくもん こゝ  するの大学問、此に於て又た知るべし。何となれ  ば、先生三代上下の治を略して、而て三代の治を          しゆうかん     だん  取る。則ち其の志周官に在ること、断じて知るべ  し。其の三代の治を曰ひて、而て周官と曰はず、     われ                 然るに予何を以て其の志周官に在ることを識るぞ。                       周公は三王を兼ねんことを思ひ、夜以て日に継ぎ、  幸にして之を得たりと云ふ。則ち三代の礼楽、刑    とうくわつ  政、統括されて皆周官に在り、故に其の周官を指  せること益々信ずべし。其の其の本を明らかにせ  ずして、而て徒に其の末を事とせば、則ち亦た復  すべからずと曰へるは、則ち誠意慎独、豈其の本  たらざらんや。故に誠意慎独を外にして以て之を     それいしやく           くわくぐじよ  行はゞ蘇令綽が如き、未だ其の民をして驩虞如た               かう/\  らしむる能はず、何ぞ況んや如に於てをや。    わうけいこう  而も王荊公の如きは、則ち特に国を富ますの利心                     あみ  を以て、仮りて以て之を行ふ、則ち其民を網し下   さら    かこく         うべ  を浚ふの苛刻に陥りしは宜なり。要するに皆其の  本を明らかにせずして、而て徒に其の末を事とす    とが              るの咎のみ。而も荊公の如きは、周官の罪人たる                      おこ  を免れんと欲するも得んや。故に凡そ善政を起さ  んと欲する者は、先づ宜しく慎独誠意以て明徳を               こゝ             しん  明らかにすべし。而て其の本此に立たば、則ち親  みん     ちくだん  民の治功逐段挙らん。此れ独り大学の工夫のみに         そうえう            わう  あらず、周官の総要と雖も亦た只だ此れのみ。横  きよ            あひおもむ  渠先生の謂はゆる「民をして相趨くこと骨肉の如               やす        くならしめ、上の人は赤子を保んずる如く、人を  はか     おのれ  謀ること己の如く、衆を謀ること家の如くせば、     おのづ              でんせい さん  則ち民自から信ぜん」とは、是れ周官の田制を賛           しか きうきやう          するの言なれども、而も究竟大学の誠意慎独に帰                  す。因つて大学と周官と、其の帰一たるを知るべ                 これ  し。周官が昔の大儒に尊ばるるは此を以てなり。      つね                こん  我れ故に毎に言ふ、大学の慎独は、即ち周官の崑  ろんみんざん             かうか  崙岷山なり。周官は乃ち大学慎独の江河なり。崑            いづく       ゆうよう  崙岷山なければ、則ち焉んぞ江河有用の水あらん                    うつそく  や。江河無ければ、則ち崑崙岷山泉源を鬱塞して、         終に無用の汚と為らん。是の故に慎独以て明徳を            した  明らかにし、以て民を親しまば、則ち周官の良法      めいめいとく              ほう  善政、皆明明徳中の事にして、而て別に周官の法                  度なるもの者有ることなきなり。若し別に之れあ  りと云はば則ち周官の良法善政と雖も、亦た是れ  はしや   ぎ  覇者の偽のみ。陽明先生の三代以後の治を取らざ     けだ  るは、葢し周官慎独を以て本と為すと相反するを              つね   以ての故なるか。而も先生毎に文中子を称するに             は  いづ        ぞく  賢儒を以てす、其の意将た何くにあるぞ。其の続  けい  経に在らずして、而て其の周官を尊びしに在り。        しよう       きよくぜ        む び  文中子周官を称して以て王道の極是と為し、夢寐  にも之を行はんと欲せり。又た其の言に曰く、       じじよう        かみ  「吾れ千歳而上を視るに、聖人の上に在る者、未        だ周公に若くものあらず。其の道は則ち一にして、    けいせい   そな          じじゆん  而て経制大に備はる。後の政を為す者、持循する  ところあり」と、文中子云ふ所の「其の道は則ち  一」とは、先生云ふ所の本を明らかにせざるの本  にして、而て即ち亦た慎独の独なり。経制・慎独      すなは  に出づ、便ち是れ王道にして、而て文中子の願ふ  所なり、先生も亦た願ふ所なり。故に吾れ謂ふ、  先生文中子を指すに賢儒を以てせるは、必ず其の                  周官を尊びしに在り。而て先生象祠の記に曰く、  「諸侯の卿は天子に命ぜらる、葢し周官の制にし           しやう はう     なら  て、其れ殆んど舜の象を封ぜしに倣へるか」と。  是れを以て之を観れば、則ち一部の周官は、先生      ゆうくわ      ほかふ       たいてい  の胸中に融化す。而て其の保甲の制は、大抵司徒    ひりよぞくとう  そんえき         ね      や     べうい  の比閭族党を損益せり。士を練り軍を行り、苗夷   せいさう  しんがう  を征勦し、宸濠を平治せしが如きは、則ち人皆以   そんご               かくわん  て孫呉の余智に出づると為し、而て其の夏官大司      にぎ     さんご さくそう  馬の法を握つて、参伍錯綜以て之を変化し、而て                   あ ゝ  慎独に出でしことを知らざるなり。嗟乎、真に良    いた       へんたいこううしや     うかゞ  知を致すの大学問は、偏滞拘迂者の能く窺ふ所に  あらざるなり。   


此語伝習録徐
曰仁録に出づ。

唐虞。堯舜。

三代。夏殷周。










周官。周礼に
同じ、四十二巻
あり、周公旦の
作と伝ふ、天地
春夏秋冬に象り
て官制を立て職
掌を記し、王道
的治法を巨細網
羅す。

周公は云々。
孟子離屡篇下篇に、
「周公は三王を
兼ね四事を施さ
んを思ふ」とあ
り、三王とは禹
湯文王武王とを
云ふ。

蘇令綽。蘇綽
字は令綽、北周
の宇文泰に仕へ
て、制度を改め、
周官の政治を行
はんとせり。

驩虞如。孟子
に覇者の民は驩
虞如たり王者の
民は々如たり
とあり、前者は
歓欣、後者は和
楽の意。

王荊公。宋の
王安石、字は介
甫、荊公に封せ
らる、周官の治
法に志あり、諸
種の新法を行ひ、
却て騒乱を来た
し、遂に失敗に
終れり。

周官の罪人。
周官を誤用して
周官に累を及ぼ
す、是れ周官の
罪人。

横渠。張横渠、
前出相趨。互に扶
け合ふ。

骨肉。兄弟。

人を謀る。人
の為めに謀る。






崑崙岷山。黄
河は崑崙山より
出で、楊子江は
岷山より出づ、
周官は慎独より
出づ。

泉源云々。水
源が山中に鬱塞
して、無用の汚
水池となつて終
る。












文中子。隋の
王通、字は仲淹
門人謚して文中
子と曰ふ、六経
続篇を輯せしも
伝はらず、今文
中子一部を伝ふ、
伝習録徐曰仁所
録に「文中子は
賢儒なり」と曰
へり。




持循。持ち従
ひて行ふ。



象祠。舜の弟
象の祠。其の記
文、王子の全集
に収めらる。
舜の云々。舜
が不良の弟を封
じて監護の官を
附す、周官はそ
れに倣うて諸侯
の卿わ天子より
命ずといふ。
保甲。王子江
西に在り、民兵
を選び十家牌法
を行ふをいふ。
司徒。周官の
地官の長を司徒
といふ、邦教を
掌る、五家を比
となし五比を閭
となす云云とあ
り、王子其法を
斟酌(損益)し
て保甲法を案出
すといふ。
宸濠。明の王
族にて江西省南
昌に封せらる、
王子其叛乱を平
ぐ。
夏宮大司馬。
周官の夏官の長
を大司馬といふ、
邦政を掌り邦国
を平かにす。
偏滞拘迂。か
たより執滞し、
かゝはり迂闊。


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