● た
三二 顧亭林心学の弊を矯めんと欲し、終に種子云
● でんじゆ しやく
ふ所の孔門伝授の心法を以て、釈氏の言を借用し、
く ●たうじんけい
酌むべき無きにあらずと為す。而て又た唐仁卿人
に答ふる書に謂はゆる、心学の二字は、六経孔孟
い ざん
の道はざる所の語を引いて、以て心学を禅学に竄
ちく
逐す。是れ其の意を推すに、全く陽明先生良知の
● はきふ あ ゝ
学を慈み、而て程子に波及するものなり。嗟夫、
ゑん いと
寃なるかな。而て亭林独り心学を厭ふこと此の如
ゐき
しと雖も、古の大儒皆此に由つて賢聖の域に入る、
なん まど
則ち亦た爰ぞ疑はんや。後進もし亭林の説に惑ひ、
はい
心を廃して以て書を読み理を窮むれば、則ち其の
くんこ
学ぶ所は特に訓詁文字の末のみ、豈聖学ならんや。
故に今乃ち試みに大儒の心学の説を挙げて以て之
こうしん まどひ ●
を証し、而て後進の惑を破らん。明道程子曰く、
すで ほう
「聖人の千言万語は、只だ是れ人已に放するの心
も はんふく
を将つて、之を約して反覆身に入り来らしめ、自
かうじやう ●
ら能く尋ねて向上し去らしめんことを欲す、下学
● も
して上達するなり」と。伊川程子曰く。「学は本
かへ
と是れ心を治む、豈反つて心害を為すあらんや」
と。此れ皆学は心を以て主と為す、心学にあらず
しんち
して何ぞ。朱子曰く。「古より聖賢は皆心地を以
●
て本と為す」と。又た曰く。「孟子説く、学問の
●
道は他無し、其の放心を求むるのみと、此れ是れ
学を為す、第一義なり」と。又た曰く。「学を為
せいけいけんでん すで
すの道は、聖経賢伝、人に告ぐる所以のもの。已
けつじん
に竭尽して余なし。人此の一心を存し、自家の身
に主宰あらしめんを欲するに過ぎず」と。又た曰
あ
く、「今日の学者長進せざるは、只だ是れ心在ら
ず」と。又た曰く。「古人は只だ心上に理会し去
る。天下を治め去るに至つても、皆心中より流る」
●
と。又た曰く。「人心は人欲なり、道心は天理な
さ な
り。天理人欲、他のために劈いて両片と倣さば、
自然に分暁せん。堯舜禹伝ふる所の心法は、只だ
此の四句なり」と。此れ亦た学は心を以て主と為
●
す、心学にあらずして何ぞ。真西山先生曰く。
●
「大舜の十六字は、万世心学の源を開けり。後の
聖賢更るがはる相授受す、同じからざる若しと雖
も、然れども大要人に道心の正を守つて、而て人
とゞ
心の流を遏めしむるのみ」と。此れ明らかに心学
の二字を言へるなり。陽明先生曰く。「君子の学
は、惟だ其の心を得るを求む。天地を位せしめ万
物を育する至ると雖も、未だ吾が心の外に出づる
●
あらざるなり」と。王龍渓先生曰く。「夫れ千古
聖人の学は、心学なり、太極は心の極なり」と。
●
而て毛西河先生に至つては、心学を解し得て尤も
明快痛切なり。其の文の略に曰く、「心学は是れ
こ び ●
真の聖学なり、道心惟れ微といふ十六字の伝堯舜
な ●と
に始まるを論ずる毋し。即ち孔子曰く、操れば則
と
ち存すと、此の心を操るなり。大学に曰く、心を
正しうすと。孟子曰く、其の心を存すと。又た曰
く、其の放心を求むと。皆専ら此の心を治むるな
そうし ● た
り。故に曾子の一貫の学は、 だ是れ一恕のみ、
●
心学にあらざるは無し」と。張南士曰く、「心学
ぜん
は是れ禅学にあらず。天仏を生ぜざる時、先づ此
● すで
の心を生ず。仏法未だ中国に入らざる時、已に早
●
く心を存し性を養ふの学あり。其の禅に類するを
懼れて此心を去らしむ、何ぞ可ならん。それ儒仏
すう すべ
の類せざる多し、鬚髪類せず、家室居処都て類せ
ず、然かも猶相類するものは此の人心のみ。人と
虫獣との若きは、則ち絶えて一も類するものなし。
こらう ほうぎ たま/\
然り而て虎狼の父子、蜂蟻の君臣、忠孝の心、偶
亦た相同じ。万一心学を攻むる者、惟だ虫獣に類
あは せい
するを恐れて、而て此の忠孝の心を併せて一斉に
し ●
之を去らば、是れ虫獣にも若かざるなり」と。二
●
王・毛氏の説は、皆亦た心学の奥を明らかにせる
なり。是れに由つて之を観れば、則ち聖学の要、
けつ
辞書の訣は、只だ放心を求むるのみ、只心を正し
うせんのみ。この外更に学なし、亦た奚んぞ疑ふ
に足らんや。
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●顧亭林。名は
炎武、清初の大
儒、著書多し。
●中庸章句の始
めに、朱子が程
子の語を引いて、
此の篇は乃ち孔
門伝授の心法と
いへり。
●唐仁卿。名は
伯元、明の万暦
中の進士、其学
程朱を宗とす。
●波及。陽明を
悪んで、非難を
程子にまで及ぼ
す。
●明道。宋の程
、前出。
●下学上達。卑
近の処から学ん
で、高尚な処に
達す、論語憲問
篇の語。
●伊川。程の
弟程頤、前出。
●孟子。告子上
篇に説く。
●放心。はなれ
て、迷ひ出た心。
●二三八頁精一
執中の項を見よ。
堯舜禹伝ふる所
の四句なり、両
片は天理人欲を
指す、此処朱子
語類七十八巻参
照。
●真西山。名は
徳秀。南宋理宗
の時、参知政事
となる、其学朱
子を宗とす。
●十六字。前項、
人心惟危云々の
文句、十六字あ
り。
●王龍渓。名は
畿、王陽明の高
弟。
●毛西河。清の
毛奇齢、前出。
●堯舜云々。堯
舜に始まつたの
は論ずるまでも
ないとの意。
●操れば云々。
孟子告子上篇に
見ゆ。
●一貫。孔子が
曾参に、吾が道
一似て之を貫く
と教ゆ、曾子は
之を門人に説明
して忠恕といふ、
論語里仁篇に出
づ。
●張南士。未だ
検出せず。
●仏法。後漢明
帝の時、仏法支
那に入る。
●心を存。孟子
の語。
●二王。王陽明、
王龍渓。
●毛氏。毛西河。
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