文政十一年は、陽明王子歿後三百年に当つた。是より先き中斎は、田
能村竹田に嘱して王子の肖像を画かしめたが、画成るに及んで大な喜び、
毎に人に語て曰ふ「余をして畏敬此の如くならしむるものは、其れ竹田
なるか、呉道子再生するも、恐らくは此に至らじ」と(此事竹田画談に
記す、其画今伝らず)、因つて之を洗心洞の講堂に掲げ、王子の三百年
祭を行ふた。其の祭文に、先づ「維大日本文政十一歳、次戊子、十一月
二十九日。浪花市吏大塩後素、謹以 清酌時羞之奠 。昭祭 于明新建侯
陽明王先生之霊 。嗚呼、先生豪傑而聖賢。武略而文章。征 誅冦賊 。
開 導衆生 。当代孔孟、後世伊姜。伏以自 従南宋 。迄元明際。関 濂
洛。学明一快。雖 然不 知 帰宿何在 。於 是紫陽末派。蔽固難 敗。知
行分裂。聖教破壊。出 二氏下 。学者不 悔。訓詁蘿葛。六経埋殺。碩
学鴻儒。茫猶 渉 海。 中略 嗚呼、先生拈 人心良 。再 明精一 。高明
之徒。返 轅悟 失。巨鐘回 夢。始瞻 中天日 。」、と言ひ起して良知
学を賛し、中腹には王子の功業を叙列して、又た曰ふ「嗚呼先生。人称
其功 。謂 其学非 。不 知功業。皆出 良知 。惜哉良知之説。絶響幾時。
考 索其由 。决不 在 師。曰仁蚤夭。緒山才遅。龍谿過 高。原静好 奇。
東廓南野。具 体而微。劉死黄刑。学脉断糸。道之不 行。其有 斯歟。」
と、茲に良知学の絶響を痛み、彼に在つて、銭緒山、王龍渓、陸原静、
ケ東廓、欧陽南野等諸高弟に対し、皆不満の意を表し、次に自己に落し
て曰ふ「予生 異域 。数百歳後。難 討 要領 。黙々株守。不 能 出 頭。
庶乎猿 、夜 之間有 人相授。所 授果何。聴 誠意講 。偶購 全書 。
読 一二句 。忽知 如心非 、又識 学謬 。専 誠研磨。嬰 心肺疚。欲
死再三。薬效不 奏。祖母病卒。外祖終 寿。悲哀刺 骨。病勢益厚、何
幸反蘇。不 知誰救。在 天之霊。不 然天祐。断然立 志、不 敢事 口。
躬行実践。学脉無 負。願先生助 予。不 使 此心朽 。殺 身為 仁。固
予所 懋。清明如 在。霊鑑何咎。嗚呼格思。享 余祭祝 」と、自分は数
百年後の外邦に生れ、猿 に斉しく黙々として出頭の処なかりしも、一
朝夢寐の間に不思議にも誠意の講を聴き、良知の学を授かり、予ねて肺
疾に罹り、再三死せんとせし身も忽ち蘇生した、因つて断然志を立て躬
行実践の上に、此の学脉を相続なさんことを期す、身を殺して仁を為す
は、固より勉めんと欲する所、先生、願くは此心を朽ちしめずして、輔
くる所あれと言ふて筆を収めた。一篇七百字、王子に帰 の精神と覚悟
と、言々肺腑より出づ。而かも「殺 身為 仁」の一語、其末路を予言す
るものに似たるは、蓋し偶然に非ざるなり。
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