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次に奸吏糾弾の事件が始まつた。其は文政十二年、中斎三十七歳の時
であつた。当時西町奉行吟味役に弓削新右衛門といふものが居り、時の
奉行内藤隼人正に諂つて、其の庇護の下に暴行醜事をはたらき、良民を
殺し、金物を掠奪するに至つた。而かも所司は奉行を憚つて之を黙視し、
唯だ眉を顰めて腹誹するのみであつた。中斎は之を知つて憤慨し、直に
進んで其罪状を摘発し、新右衛門を自刃せしめ、奸徒数人を磔刑に処し、
其他の党与を処分し、其贓金三千両を以て窮困者を賑恤した。是に依て、
奸吏が良民を蠧害する弊風漸く除かれ、市民は舞して中斎を父母の如
くに仰いだ。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その40
諂(へつら)つて
腹誹
(ふくひ)
相手を心の中で
批難すること
蠧害
(とがい)
物事を害する
こと
舞
(べんぶ)
流謫
(るたく)
とがめられて
流されること
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奸吏糾弾の明年、破戒僧侶の処分が起つた。奉行山城守は府下僧侶の
不法淫蕩を悪んで、之を厳罰に処せんとした。中斎は先づ之を訓誡し、
尚ほ悛めずば処分の手を下さんと建言し、懇ろに訓諭したが、効果が無
い。そこで遂に厳罰の手を下し、甚しき者数十人を海島に流謫した。そ
の為め僧侶の風、頗る改まつた。
右は中斎吏績中の三大功績にして、其の招隠の詩の序文にも之を自述
して居る。其他大小の功績は蓋し数ふるに勝へない。奉行山城守は特に
之を寵用して、提刀登庁の格を与へたと謂はる。中斎も亦た山城守に対
しては、言聴かれ、計従はれ、千歳の一遇とまで言うて居る。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その42
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その43
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