Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.8.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その74

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第二十五章 挙兵の批判(3)
管理人註
   

 川北梅山 名長順 は伊勢津藩の儒にして斎藤拙堂門下三俊の一人であ る。明治初年官を辞し、隠退すること多年にして没した。其言に曰ふ、  余は中斎を識る、中斎は固より凡庸の人に非ず。但だ平常言動頗る狂  気を帯び、人を聳動するも、人を感動せず。然れども之を維新の前に  在らしめば、勤王の魁首たりしやも亦未だ知る可らず。(三島中洲作、  読洗心洞箚記の評言)  津藩は拙堂が初めより中斎を敬重した。中斎又た神宮の帰途に立寄り などして、一藩に知己が多かつたから、梅山の所論自ら他に異なるもの がある。維新の前に在らしめば、勤王の魁首たりしやも知る可らずとの 所論は、霊犀一点相通ずるものあつて、他の幾微に触れたと見るべきで はなからうか。  春日潜庵 名仲襄、陽明学派、京都勤王儒者 は、大塩平八郎伝の著者 石崎東国の伝聞に据ると、中斎の此挙を勤王の義挙といふて居るとのこ とである。潜庵の遺族 精之助 は之を虚伝として居るから、真偽は判ら ぬ。然かし中斎が天子の御膝元には廻米を痛く制限しながら、江戸に廻 米するは何事ぞと憤慨し、檄文にも其を痛論して居る処から見れば、勤 王の義挙といふても無理は無い。時期が早い為めに、勤王の挙も不穏当 と見られ、時機が熟した為め、勤王と銘打たれる場合が随分あることを 注意せねばならぬ。  余には愚見がある。余は中斎の学問思想の経過を熟考し、又た挙兵の 決心後も、幾十日の間従容として善処せし心情を考察し、又た堂々たる 檄文を細読して、全く最後の一挙を癇癪の破裂した行動とは信ぜぬ。然 らば如何に視るか、中斎は自己の学問信念のまゝを実行したのである。 中斎は致良知と帰太虚との工夫に於て、体験することは久しかつた、孔 孟の学を以て、仁を求める学と信じた、身を殺して仁を成すといふこと を度々繰返して居る、中斎は其の学問信念の通りに行動したのである。 試みに思へ、世に直接行動など云ふものは、皆何等かの私心又は野心が ある、局面を自己に有利に転廻しようと思ふて居る。中斎の一挙は、猾 吏驕商に膺懲の一撃を加へることを仁の仕事、天の仕事として、其まゝ 死んで行つたのである、天地の間に義声を印するのが中斎の目的であつ た、何の私心も野心もない、此の純真なる行動は許されねばならぬと思 ふ。されば若し世に、中斎の学問体験と信念とを有たず、又た彼の切迫 した時情と事態とがなくして、口を中斎に仮る者があらば、其れは容赦 なく乱臣賊子と曰はねばならぬ。

霊犀
(れいさい)
互いの意志が
通じあうこと


























石崎東国
『大塩平八郎伝』
その123






























 


『大塩中斎』目次/その73

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