島村仲道は高知藩士にて、明治初年の名法官である。中斎の心事を諒
として青天霹靂史を著はし、力めて其挙兵の動機を審かにした。そして
其結論に曰ふ。
平八郎は一世の人傑なり、才あつて用るに処なく、名あつて全きを求
め難し、憤懣胸に満て、耿々寝る能はざる鬱悒あらんとす、是を以て
霹靂の天に発して、轟然怒を洩す如し、自を殺して辞せず、奸吏驕商
を戦慄せしむるの暴挙を為すに至りたるなり。然れども、暴虎憑河死
こゝろよ
して悔るなきの行を以て、其心を慊うせんとしたる者にはあらず、亦
取捨得失の機に於て、自ら得る所ありて此に至りたる者なるや知るべ
し。必らず後来隠然として天下に益する所の者ありしなるべし、豈其
表に発する者なきを以て之なしとす可けんや。恐くは英霊の今に於て
存するも知るべからざるなり。乃ち平八郎が弟子に示すの語に於て其
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意を見るに足る者あり、曰く「当忠孝之変。殺身成仁。是其所
ル
止也。」
右は中斎の暴発を以て暴虎憑河の挙にあらずとなし、取捨得失の機に
於て自ら得る所ありとなし、英霊今に存するも知る可らずとて、中斎の
語を以て之を結べるは、いかにも名法官の論談を想はせるものがある。
川田甕江 名剛 は、明治十四年板行の洗心洞箚記に序して曰ふ。
大塩中斎天資英邁、学余姚を奉じ、当時一斎、山陽、拙堂、諸儒皆推
服す。特に其の兵を挙げて克たず、身刑戮を被るの故を以て、後人疑
を心術に致す。殆ど中斎を知る者に非ず。蓋し天保中歳饑へ、塗に餓
あり、中斎倉廩を発し、民を救はんと欲し、姦吏の沮む所となり、
情切に勢迫り、遂に干戈に及ぶ、乱民賊子と科を同じうして語る可ら
ず。近日西洋に心国家の為めにし跡叛乱に渉る者を目して国事犯と曰
ふ、中斎の如きは是なり。此書は中斎の手録にして、平生自得する所、
而して其説太虚を以て帰となす。夫れ心果して虚ならば、寧ぞ人を殺
し、国を奪ひ、以て栄利を求むる者あらんや。読者中斎の迹を舎て、
中斎の心を取らば斯に可なり。
これは乱臣賊子とは科を異にして居る。謂はゆる国事犯であるから。
迹を取らず、心を取れといふ。儒者として名判断に近いであらう。
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