Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.8.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その73

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第二十五章 挙兵の批判(2)
管理人註
   

 島村仲道は高知藩士にて、明治初年の名法官である。中斎の心事を諒 として青天霹靂史を著はし、力めて其挙兵の動機を審かにした。そして 其結論に曰ふ。  平八郎は一世の人傑なり、才あつて用るに処なく、名あつて全きを求  め難し、憤懣胸に満て、耿々寝る能はざる鬱悒あらんとす、是を以て  霹靂の天に発して、轟然怒を洩す如し、自を殺して辞せず、奸吏驕商  を戦慄せしむるの暴挙を為すに至りたるなり。然れども、暴虎憑河死                 こゝろよ  して悔るなきの行を以て、其心を慊うせんとしたる者にはあらず、亦  取捨得失の機に於て、自ら得る所ありて此に至りたる者なるや知るべ  し。必らず後来隠然として天下に益する所の者ありしなるべし、豈其  表に発する者なきを以て之なしとす可けんや。恐くは英霊の今に於て  存するも知るべからざるなり。乃ち平八郎が弟子に示すの語に於て其                 テハ    ニ  シテ  ヲ ヲ  レ ノ  意を見るに足る者あり、曰く「当忠孝之変。殺身成仁。是其所   ル  止也。」  右は中斎の暴発を以て暴虎憑河の挙にあらずとなし、取捨得失の機に 於て自ら得る所ありとなし、英霊今に存するも知る可らずとて、中斎の 語を以て之を結べるは、いかにも名法官の論談を想はせるものがある。  川田甕江 名剛 は、明治十四年板行の洗心洞箚記に序して曰ふ。  大塩中斎天資英邁、学余姚を奉じ、当時一斎、山陽、拙堂、諸儒皆推  服す。特に其の兵を挙げて克たず、身刑戮を被るの故を以て、後人疑  を心術に致す。殆ど中斎を知る者に非ず。蓋し天保中歳饑へ、塗に餓  あり、中斎倉廩を発し、民を救はんと欲し、姦吏の沮む所となり、  情切に勢迫り、遂に干戈に及ぶ、乱民賊子と科を同じうして語る可ら  ず。近日西洋に心国家の為めにし跡叛乱に渉る者を目して国事犯と曰  ふ、中斎の如きは是なり。此書は中斎の手録にして、平生自得する所、  而して其説太虚を以て帰となす。夫れ心果して虚ならば、寧ぞ人を殺  し、国を奪ひ、以て栄利を求むる者あらんや。読者中斎の迹を舎て、  中斎の心を取らば斯に可なり。  これは乱臣賊子とは科を異にして居る。謂はゆる国事犯であるから。 迹を取らず、心を取れといふ。儒者として名判断に近いであらう。


島本仲道
『青天霹靂史』
その61


『大塩中斎』目次/その72/その74

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