山上智海 『法華外伝』田辺書店 1920 所収
ルビは、適宜採用しています。
三 やが ひきおこ そも\/大塩平八郎が大阪における義挙より、頓て大騒動を惹起す ど う に至つた原因は奈何かと申しますと、所謂天保七年丙申の大飢饉に附 け込んで、奸商、悪農等が層一層米価を暴騰せしめたのみならず、富 きうじゆつ 豪の多くが何等救恤の方法をも講ぜぬからの義憤なのでした。 くだり ひもと 今『浮世の有様』天保七年の條を繙きますと ひのえさる 天保七年丙申年風水の天変ありて、世間一統騒々しき事限りなし。 みづのとみ げぢき 元来去る癸巳の違作ありてより、米価下直なる時と雖も、百目以下 八九十匁よりは下る事なかりし……。 と見ゆる如く、七年丙申の飢饉は実に四年癸巳の不作から引続いてゐ み るのでしたから、世を挙げて生活難の怨声にちて参りました。で勢 だいとう ひ貧民を救済し、物価を調節せしめねばならぬ社会問題が抬頭して来 たのです。 先づ天保七年の天変を数ふれば、五月と七月とは諸国に大洪水があ り、八月には暴風雨があつたのです。その為に、大阪に限らず到る所 いや かうとう 米の払底を告げ、其価格は弥が上にもミ騰して天井を知らない。京都 にては米一升が二百二十文位、大阪にては二百文、江戸にては百文に 米二合八勺位であつた。越前などでは米一俵の値段が平均廿二匁位で、 しやはん 高い時と雖も廿五匁位の相場であつたのが這般急激に一俵八十匁まで こと 騰貴した。殊に奥州の南部領内に在つては、米一俵の相場三百目と成 つたけれども、買ふに其品がなかつたと云ひます。『浮世の有様』の さま 筆者は其窮迫の状を描いて ・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 下賤の者共は、小児は生乍ら悉く川へ流捨て、老人は捨置きて餓死 ・・・ ・・・・・・・・・・・・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ せしめ、其死の遅きをも厭ふといふ浅ましき事なり……。 と記して居ます。 か 斯くて大阪にては八月十八日子の刻より暁迄大風雨、大雷鳴あり。 米価百五十八匁となり、十九日又四匁騰貴した。其他、麦一升百四十 八文より六十文位、小豆一升百五六十文、空豆九十二文、琉球芋一貫 目百六十文、大根一本八文位となったのです。で米買占めの奸商を襲 つぶ お ち こ ち 撃したり、雑穀店を打潰すことが乙地甲地に演ぜらゝに至りました。 しかも、 ●去る巳の年(天保四年)には世間も至つて騒々しく、飢死、投身、 そ 縛死等の噂ありしか共、夫れより打続いて米価高直にて、当時の有 せぎやう 様なれ共、変死、飢死等の沙汰を聞かず。施行も先年の時に相応に かうむ ありしか共、此度(天保五年)は御奉行所よりの御沙汰を蒙つて、 たいけ ほどこし 大家の町人少々施行せし位の事にて、一向に目立ちたる施をなせる 人あるを聞かず、されば世間に小盗人至つて多く所々にて物を盗取 り、途中にて金銭を奪ひ衣類など剥取ると云ふ。 すく と申したやうな恐怖すべき世の状態でした。国家を憂へ、民衆を拯は まさ んとする経世家たり国士たるものの、当に憤起せざる可らざる由々し き時代となつたのではありませぬか。
「大塩の乱関係論文集」目次