山上智海 『法華外伝』田辺書店 1920 所収
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二 こうそ あざな し き 大塩平八郎の名は後素、字は子起、通称が平八郎で、其号を中斎と いひ、其室を洗心洞と名づけました。大阪の与力です。弱年より読書 ま を好み、日蓮上人の御遺文を心読して其御主義を奉体し、将た王陽明 ひとゝなり うんおう よ の為人を慕うて其学説の蘊奥を究め、又能く吏務にも達してゐたので あります。文政十年、天主教の徒輩を京阪の間に捕へて殊功を奏しま した。是れが即ち彼れの出世を早からしめた所以です。後、職を養子 格之助に譲つて家塾洗心洞を開き、以て活ける学問の師父として子弟 を利導してゐました。彼の頼山陽の如き文豪も、浪華に遊ぶ毎に刺を 洗心洞に通じたと申します。 じやう そして彼れは閑暇あるや、必ず香華院たる天満東寺町なる日蓮宗成 しやうじ さい つぶ の 正寺に賽し、具さに追福菩提の典を展べて居たのです。此の成正寺の 本堂の前面には、彼れの祖父と厳君との碑および彼れの墓石も建設さ せいよ れてゐます。祖父大塩成余の碑には 祖考俗名政之丞、諱云々――。文政元年戊寅夏六月二日卒。享年六 十七。嫡孫平八郎是碑焉。 よしたか とあり、更に厳君大塩敬高の碑には 家君謹云々――。俗名平八郎、寛政十一年己未夏五月十有一日卒。 享年僅三十。嘗葬焉。旧碑為火災所焼毀。因再製碑云。天保 六歳次乙未冬十二月、長子後素誌之。 と刻んであつて、いづれも中斎が筆に成つたものであります。なほ彼 れ中斎の墓は、門人田能村直入が創めて明治三十年十月二十日を以て 建てたので、当時においては尤も重罪の人として取扱はれて居た為め、 ぼかつ 公然墓碣を建設する事を許されなかつたものです。 なか\/ おびたゞ 彼れ中斎に関係せる珍本奇籍は却々夥しい数に達して居ます。帝国 図書館に就て調査しましても、左の如き写本を見出すことが出来ます。 一、浪華異変記 四巻(写本) 一、知またの噂 五冊(写本) 一、野里口伝 六冊(同) 一、御町太平記 一冊(同) 一、塩逆述 一二巻附録三巻(同) 一、浮世の有様 四巻(同) 右のうち『野里口伝』は改定史籍集覧に収められ、また『浮世の有 様』は大正六年に国史研究会本として印刷されてゐるのであります。 別に青天霹靂史。天保日記。大阪一揆録。実事録などがありますこと は今更贅言する迄もなからうかと存じます。
「大塩の乱関係論文集」目次