Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.1.11

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大塩の乱関係論文集目次


「主義の人、大塩平八郎」

その2

山上智海

『法華外伝』田辺書店 1920 所収


◇禁転載◇

ルビは、適宜採用しています。


              こうそ  あざな  し き  大塩平八郎の名は後素、字は子起、通称が平八郎で、其号を中斎と いひ、其室を洗心洞と名づけました。大阪の与力です。弱年より読書                            を好み、日蓮上人の御遺文を心読して其御主義を奉体し、将た王陽明  ひとゝなり             うんおう         よ の為人を慕うて其学説の蘊奥を究め、又能く吏務にも達してゐたので あります。文政十年、天主教の徒輩を京阪の間に捕へて殊功を奏しま した。是れが即ち彼れの出世を早からしめた所以です。後、職を養子 格之助に譲つて家塾洗心洞を開き、以て活ける学問の師父として子弟 を利導してゐました。彼の頼山陽の如き文豪も、浪華に遊ぶ毎に刺を 洗心洞に通じたと申します。                               じやう  そして彼れは閑暇あるや、必ず香華院たる天満東寺町なる日蓮宗成 しやうじ さい    つぶ          正寺に賽し、具さに追福菩提の典を展べて居たのです。此の成正寺の 本堂の前面には、彼れの祖父と厳君との碑および彼れの墓石も建設さ           せいよ れてゐます。祖父大塩成余の碑には  祖考俗名政之丞、諱云々――。文政元年戊寅夏六月二日卒。享年六  十七。嫡孫平八郎是碑焉。           よしたか とあり、更に厳君大塩敬高の碑には  家君謹云々――。俗名平八郎、寛政十一年己未夏五月十有一日卒。  享年僅三十。嘗葬焉。旧碑為火災焼毀。因再製碑云。天保  六歳次乙未冬十二月、長子後素誌之。 と刻んであつて、いづれも中斎が筆に成つたものであります。なほ彼 れ中斎の墓は、門人田能村直入が創めて明治三十年十月二十日を以て 建てたので、当時においては尤も重罪の人として取扱はれて居た為め、    ぼかつ 公然墓碣を建設する事を許されなかつたものです。                なか\/ おびたゞ  彼れ中斎に関係せる珍本奇籍は却々夥しい数に達して居ます。帝国 図書館に就て調査しましても、左の如き写本を見出すことが出来ます。  一、浪華異変記  四巻(写本)  一、知またの噂  五冊(写本)  一、野里口伝   六冊(同)  一、御町太平記  一冊(同)  一、塩逆述    一二巻附録三巻(同)  一、浮世の有様  四巻(同)  右のうち『野里口伝』は改定史籍集覧に収められ、また『浮世の有 様』は大正六年に国史研究会本として印刷されてゐるのであります。 別に青天霹靂史。天保日記。大阪一揆録。実事録などがありますこと は今更贅言する迄もなからうかと存じます。


井形正寿「大塩ゆかりの史蹟を訪ねる (二)


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