Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.1.2

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」 その2

山本周五郎(1903-1967)

『抵抗小説集』 実業之日本社 1979 所収

◇禁転載◇

   二

管理人註
  

 矢部駿河守は、勘定奉行として去るに臨み、後任の跡部山城守に向って、 「与力大塩平八郎は傑物である、彼を信任して良く用うれば、必ず治績があ がるに相違ない、しかしもし奉行の威をもって御駕せんとすれば、必ず禍を 将来するであろう」  と云った。  跡部山城は凡俗人であったから、 「駿河侯は器量人と聞いていたが、大任の継伝に当って一与力の操縦をこと ごとしく議するところを見ると、噂ほどの者ではない」   そらうそぶ  と空囁いていたという。こんな人間ゆえ平八郎の才幹を看る明がなく、平 八郎もその下に仕うることを潔しとしなかったので、跡目を伜柄之助に譲っ て退隠した。  致仕した彼は、洗心洞を開校してもっぱら教育のことに当ったが、しかし 眼は絶えず時勢の上に注がれていた。  この時、世相はいよいよ険悪を加えるばかりだった。天保三年以来、不作、 凶作あい続き、そのうえ新鋳の悪貨が汎濫したので、諸物価――ことに米価 の騰貴は驚くべきものがあり、江戸市中においてさえ餓死者道に横たわると いうありさまであったから、地方の惨状は云うまでもない、窮民は集団的に 土地を捨て、これに武士の牢人たちが加わって群盗となり、諸所に出没して 富豪を襲撃したり良民を掠奪したりし始めた。  この状態は天保七、八年に至って極まり、すでに幕府、諸侯もこれを鎮圧 する手段に困惑するありさまとなった。  かかる世態をなんで平八郎が黙視し得よう、彼は再三奉行所を叩いて善処 すべきを進言した。しかし山城守はてんで耳を傾けようともしないのである。 平八郎はついに怒って、                                  あた 「そもそも奉行職はいかなるが本務であるか、国を治め民を安んずること能        もつこう わずば、冠せる沫猴に過ぎぬではないか、――巷に斃死する餓死者を見られ   ちまた い、街にどよむ窮民の叫びを聞かれい、尊公もし今にしてなすところ無くん ば、大事は大坂城下より発するであろう」  と怒号した。山城守もさすがにその語勢の猛なるに辟易して、 「そういうことなればただちに関東の指令を乞うて方策をたてよう」  と答えた。   てぬる 「手温いことを!」  平八郎は膝を叩いて詰寄った、「ことは危急に迫っている、今日救いの手 を下さなければ今日餓死する人間が群れているのに、関東へ伺いをたてるな どとは迂遠極まる話だ、よろしく尊公の裁量をもって救民の法を断行された い」 「しかし、たんに奉行職として専断にことを行うわけには参らぬ」 「なぜいかんのか」                               おそ  平八郎は膝を進めて、「おそらく尊公は専断の罪に問われるのを惧れるの であろうが、身を殺して仁をなすということもある、ぜひとも断行していた だきたい」 「なる程、身を殺して仁をなすとはある。しかしそれなら他人に進めるまえ に、なにゆえそこもとがそれを実践しないのか」  小人の云いそうな揚足取りである。これが平八郎をすっかり怒らせた。 「よろしゅうござる」  彼は面色を変じながら答えた、「身を殺せとあれば殺しましょう、しかし                         ヽ ヽ いちおうお断り申しておくが、平八郎が身を殺すとちとうるそうどざります るぞ」  云い捨てて起った。  そのとき、彼はすでに大事を決行すべき肚を決めていたのである。しかし、 ――彼はそれからも富豪たちを歴訪して、救民の業を計ったのである。かつ て与力として辣腕をふるっていた時分には、唯々諾々と彼の意を迎えた連中 も、洗心洞主としての彼には一顧も与えなかった。 「――もはや穏便の策及ばず」  彼の公憤は激発した。  平八郎は幼少より書物を愛し、生涯に買い求めた希書珍籍は棟に充ちてい た、そして彼は何よりもその蔵書に愛着をもち、珍重していたのであるが、 ――それらを断然売却した。  伜の柄之助が訝って、 「御愛蔵の書籍をどう遊ばします」 「書籍のみではない、売れる物は家具什器ことごとく売却する所存だ、この      とき 危急存亡の期に当って万巻の書が何になる」  柄之助は父が例の痛癖を起しているのに気付いた。 「しかし、父上、当家を全部裸にしても、救うことのできる者はわずかな数 ではございませぬか、窮民は天下に充満しております。さように短気を遊ば さずとも、万人を救う策を講ずるのが本当ではございませぬか」 「父はできるだけのことをしたのだ」  平八郎は黙念と云った、「しかし駄目だ、上には一人として、人間がいな い、みんな眠れる豚だ。城中に千万の黄金を擁し、御蔵に万石の米を死蔵し ながら、一指も救恤のために動かそうとせぬ、――大塩家の微財をもってど                  れはどの人が救えるか、そちの言に俟たずともよく知っている、しかし万民 を救うことができないとしたら一隣人だけでも救わねばならぬ、そのうえで 父にはさらに思案があるのだ」         び う  柄之助は父の眉宇に閃く不穏の色を見てとったが、もはやなにも云わなか った。


川崎紫山
「矢部駿州」
その9


















平八郎の退任は
天保元(1830)年
跡部の着任は
天保7(1836)年



文化14(1817)年
25歳のころに
洗心洞を開く
「大坂町奉行一覧
 


山本周五郎「大塩平八郎」その1/その3

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ