Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.1.3

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」 その3

山本周五郎(1903-1967)

『抵抗小説集』 実業之日本社 1979 所収

◇禁転載◇

   三

管理人註
  

 書籍その他を売って得た金は七百両あまりになった。  平八郎はその金の半分で米を買い、半分を一朱金に換えた。そして家の門 を開いて積上げ、困窮の人たちを招いて分配したが、そのとき密かに一枚ず つ刷物を添えて、 「――天満橋、天神橋のあたりに火事が起ったら、志のある者はすぐ集って 来るよう」  と伝えた。  かくて天保八年二月十九日、平八郎は旧僚友の与力、同心のうち、風をし たってはせ参じた潮田、小泉、渡辺、荘司、近藤、平山らを中心に、摂津、 河内の農民合せて五百余をもって蹶起したのである。  まず天満組屋敷へ火が放たれた。かねてこのことあらんと待受けていた窮 民たちは、火の手を見るよりたちまち群集して来る、一味は鉄砲、火矢、棒、 刀、竹槍を揮って進撃。建国寺を焼いて猛然と奉行所へ肉薄した。  しかし奉行所においても、はやく内通する者があって防戦の準備はできて いたから、とっさに天満、天神の三橋を撤して拒み、一党が難波橋へ廻るう ちに急遽兵を催してこれに当った。かくて大塩方は二た手に別れ、城兵と大 坂在番の諸侯とを合した軍を相手に、果敢な市街戦を展開したのである。  もちろん、戦いに利の無いのは分っている。悪闘苦戦の後、同志を次々に 討たれ、挙に加わった衆もまた形勢の悪化を見て敗走するなど、月を越えて 三月に入るや、ほとんど擾乱は屏息するに至ったのである。かくて同月二十 七日、大塩父子は油掛町五郎兵衛なる者の別宅に隠れているところを幕吏に 襲われて、遁れざるを知り、自ら火を放って焚死し、ここにまったく天保の 乱は鎮定したのである。  こうした事実だけからみると、平八郎の挙は失敗に終っているが、ここで いちおう、――彼の真意を考えてみたい。この事件に当って彼の採った戦法                              ぶざま はまったく無謀であった、凡愚でない平八郎がどうしてこんな不態な失敗を 演じたかという点を理解しなければならぬ。 『東湖随筆』という書物に、彼の人となりをもっともよく識っている矢部駿 河守の言葉が載っているが、それには彼の言行を評した後、 「大坂城の仔細は平八郎のもっとも精通するところである。もし彼にしてじ つに叛逆の大望があったならば、何を措いても大坂城へ立寵るべきで、彼な らそれができたのである、しかるに城へはよらず、かえって不利になる戦法 を採ったことは何故であるか……?」  と言葉を濁している。  この「何故不利な戦いをしたか!」というところに真相があるのだ。  思うに彼がことを起したのは、警世の木鐸を打鳴らすためだったのである、             こく 眠れる豚どもの耳へ冷水一斛を注いだのである。始めから戦に勝つ意志も無 かったし、自分が賊名の下に死ぬことも承知のうえだった、身を殺して正義 のあるところを顕章すれば足りたのだ。  彼がもし偉大な人物であったら、おそらくこんなことはやらなかったに違 いない、彼が陽明学に通じ、自らの中斉と号しながら、性来の僑激剛偏を抑 制することができず、ひとたび怒を発すれば利害を弁ぜず起ち、その奇僑な る性のゆえにこのことに及んだのである、そしてじつに、大塩中斉の存在価 値もそこにあったのである、竹越与三郎氏はその『日本経済史』において、 「――かく民乱を生ずるに至ったる一事は、幕府が経済上より同一原因をも って倒れざるべからず運命を暗示したので、このことたるや陳勝呉広にも比 すべきものである」  という意味のことを云っている。かく仔細に案ずれば、彼もまた無くては ならぬ人物の一人であった。



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その103















潮田
瀬田済之助
のことか

























乱は半日で
鎮圧されて
人相書が手配
された

石崎東国
『大塩平八郎伝』
その121














川崎紫山
「矢部駿州」
その9





































『日本経済史』
第6巻
「大塩平八郎の変陳勝呉広の乱
秦末の農民、陳勝
と呉広の起した反
乱、
陳勝呉広は
秦に対する反乱の
兵を最初に起こし
た人であるところ
から、物事のさき
がけをすること
 


山本周五郎「大塩平八郎」その2

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ