Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.8.1

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎」

その3

横山健堂(1871−1943)

『人物研究と史論』金港堂書籍 1913より転載


◇禁転載◇

  (二)管理人註

大塩の感 化力 宇津木憲 之丞の諌 死

 大塩の人物行状には、非凡な処が見えて居る。彼の死後、彼の暴動の動機に就い て、色色面白からざる評を加へて、剰へ彼の素行にまで立入つて、言ふに忍びない 論をする人も中にはあるやうであるけれども、自分共の調べた所に拠つては、決し てさうは思はれない。彼は予ねて知友門人ほ云ふに及ばず、広く世上から異常の尊 敬を払はれて居つた。  大塩の徒党の中に大井正一郎といふ勇士が居つた。此れは暴動の時には頗る名高 い男である。此の男は矢張与力の息子であつて.又素行の極めて修まらない放蕩磊 落、親の手に持て余したものであつた。其の親は伝次兵衛といふ与力であつた。正 一郎が大あばれもので、手に余る所から、坂本源之助といふ同役に頼んで意見を加 へて貰つた。此の坂本は砲術及び槍術の師範を勤めて、殊に大塩の暴動の時には、 城方の勇将として聞えた男である。彼の正一郎は坂本の槍術の門人であつた。それ で坂本伝次兵衛の依頼を受けて、一夕正一郎を召寄せて意見を致した。然るに其の 夜半に、坂本宅の門と塀などの屋根の上の瓦を夥しく打砕いたものがあつた。それ は正一郎の所為であつたことが後に分つた。右のやうな始末であるから。到底、此 の男は勘当する外はないといふ評議に定まつた。時に坂本は思出したことがあつて、 最後の手段として、今、一度、大塩に頼んで見たらばと思つた。その故は、大塩は 出格の人物にして、子弟の作法も厳重なるのみならず、且つ恩愛も深く、既に其の 養子の格之助との関係も、実子よりも親しき情合があり、別段立派な人物のやうに 思はれて居るからなので、坂本は朱子学者、平八郎は陽明学者、学風は互に異つて 居るが、才徳は迚も平八郎には遠く及ばずと信じて居るが故に、右の正一郎を今一 度び大塩に託して訓練を加へて貰つたらば如何といふことを、伝次兵衛に忠告した。 伝次兵衛始め親族一同大に喜んで、「此の上無き心附き」といつて一切を坂本に依 頼した。そこで、坂本は大塩の宅に尋ねて、右の次第を話して深く正一郎の教育を 頼み入つた。平八郎の挨拶に、「自分の力では何共不安心であるけれども、それ程 剛気のものならば、『見込甲斐』もあるといふものであるから、兎に角、引取り申 さう」と言つて入門をさせた。正一郎は大塩の弟子になつてから、間も無く行状一 変して、次第に天晴の人物となるに至つたので、坂本始め彼の父兄一同は不思議な ことゝ思つて喜んで、益々平八郎に感服して居つたといふことである。大塩は此れ 程悍馬のやうな大井正一郎を如何にして教育したかは、方法は能く分らないけれど も、兎も角も彼は如何なる無頼青年をも威圧し得るのみならず、又た之を感化して 徳に導くだけの「人格の力」を有して居つたことには相違ない。斯ういふ工合であ るから、大阪城中一般に平八郎に対しては非常に恐入つて居つたものであつた。  大塩の暴動の時に、右の正一郎は腹心の一人とて知られて居る。大塩の暴動を諌 めた人の中に、彦根の宇津木憲之丞が死を以て之を切諌したことは、世の中に有名 こなとである。宇津木は詩人岡本黄石の兄である。宇津木が諌死の始末に就いては、 これまで伝ふる所に依れば、左の通りである。宇津木が九州の方から帰つて来て、 恰も暴動を起す時に来合せて死を決して大塩を切諌した。予ねては善に移ることの 速かなる大塩も、此の時ばかりは頑として聴入れなかつた。そこで宇津木は覚悟を 極めて別室に退いた時に、大井は平八郎の旨を受けて、槍を提げて宇津木に迫つた。 宇津木は遺書を裁し終つて、「予ねて期する所と言つて、徐ろに襟を披いて槍を受 けたといふことに為つて居る。誠に美談であるけれども、少し芝居らしい所がある。 大塩の暴動といふは、実に咄嵯の際に計画されたことであつて、此れ程の余裕が有 るやうに思はれない。本多為助の実話といふものを伝へて居る或写本に拠れば、今 のお前とは全く違つて居る。勿論、是も一説である。本多の話といふは、大塩が暴 動の朝、門人の中、弐心有るもの二人までも、平八郎自身に手を下して切殺した。 宇津木は之を見て、「是れは先生、平生の振舞にも似合はぬ事、御狂気なされたか」 と聴いた、大塩の答に「乱心では決してない。『万氏救ひ』の為め只今から出陣す るから、君も味方に附け」と云つた。宇津木は大に驚いて、さま\゛/諌言を陳べ た。其の時、右の正一郎が進み出で、「先生此の如き人物を先づ今日の血祭にしま せう」と言ひも終らず、宇津木を大袈裟に切下げて、椽側から蹴落して仕舞つた。 宇津木は椽から三四尺許りも外へ蹴り飛ばされたから、暴動で火事の跡に、腕許り 焼けた死骸が残つて居たといふことである。自分は本多の話といふ方が、或は生贄 に近いのではあるまいかと思ふ。尤も此の本多も前にもお話する如く、予ねて大塩 に敬意を払つて居る人の中であつたから、大塩のことは其の死後にも、如何にも賞 めて云ふ傾きがあることは、常に斟酌して考へなければならぬことゝ思ふ。  大井といふ男は、大塩の腹心たること隠れも無いに依り、お尋ねの人相書に出て 居るがそれには伝次兵衛「久離倅」としてある。「久離倅」といふは、永遠勘当の 意味である。実は正一郎が大塩に入門して以来、見上げた人物になつた為めに、決 して勘当を受けるどころでは無かつた。父子の関係も善くなつて居た。けれども大 塩の腹心として評判された故に伝次兵衛の同僚共申合せて、「久離倅」のやうに申 出で、其の親の難儀を救つたのである。坂本を始め伝次兵衛等なども、頼み切つた る平八郎が暴動を起したのを見て、一同、皆、年来、平八郎に瞞さてれ居つたやう に話して居る。

「咬菜秘記」 その50 之助

 

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