Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.3訂正/2002.12.7

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『諸藩蔵屋敷と大阪留守居役』

その3

吉田祥三郎編・刊 『聴潮館叢録 別巻之三』1938 所収
◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


茲に附言すべき事は、諸藩大名は大阪蔵屋敏の取扱を以て国々物産を金に換へ其経済を賄ひしのみならず、藩中所要の武器道具、刀剣甲冑の手入、研方(トギカタ)、修復等も各城下に於て用便を済ましたるものゝ外は、大阪に所要を弁じたるもの多しと知らる、

大阪は中古以降、商業都市なれば、鑓挟箱の大名行列、侍の出入往来は江戸の繁華に比すべくは非らざれども、徳川時代になりても今の上本町附近以東、玉造全体、小橋、清水谷、桃谷辺は幕府御城代、定番、与力、同心の屋敷にて、東に東西町奉行所、西に川ロ奉行所あり、天満方面、川崎,同心町辺にも幕府附の侍屋敷あり、殊に前記諸藩の蔵屋敷が処々に散在したれば、所要の武器道具、刀剣甲冑等の用便を大阪に注文するもの少なからず、(諸藩国許の所要を大阪蔵屋敷に注文し来る)、上町に武器商店、刀剣工の多かりしは、物の需要が供給を誘ひし道埋にて、中古以隆大阪に刀剣名匠の輩出したるは、供給の需要に応じたるものと言ひ得べきである、

慶長五年関ケ原の一戦を以て大阪方が敗北し、徳川氏天下を統一せしが、慶長十九年十一月、大阪冬の役起り、其翌元和元年夏の陣に至りて天守閣烏有に帰し、豊臣氏二世にして亡びぬ、

恰かも大阪の剣工名匠が擡頭輩出の気運に向ひし時代にして、更に夏冬二度の戦に刺激せられたとも言ひ得るのである、茲に一々検出することは略するが、大阪名匠の作刀の忠(ナカゴ)の裏銘(柄(ツカ)のニギリ、表に作銘、裏に年号等を彫る)に寛永、慶安、天和、元禄、延宝等の年号を彫りしものが著るしく注目せらる、大阪名匠の由来を推測することが出来るのである、

斯界に於て、慶長以降の刀剣を新刀と称す、蓋し時代の区別にて刀剣の性質に差違なきも、泰平打続き剣工だにも華奢の気分に染み、焼刃模様、彫物、銘振り等、余りに作意に過るものありとも見ゆるが、新刀も古刀に比すべき優秀の名匠少なからず、相州、備前、京物、関物等の古刀の事は姑らく措き(古刀の範囲広大、諸国複雑なり、此処主として大阪剣工の事を記す)、山城埋忠の明寿、堀河の国広は、新刀の元祖先達にて、摂津津田越前守助広、井上真戒(和泉守国貞)は明寿、国広にも優りたる名匠なり、

粟田口一竿子忠綱、吉道、国助、国輝、照包(越後守包貞)等、父子相伝、各門人の大阪剣工一流が主として関西地方に其技巧を発揮したるは目覚ましき事である、

江戸は流石に徳川氏の幕下直轄にて諸大名の本拠なれば武具、装剣、小道具の金工は大阪の及ぶべき所に非らず、家彫と称ふるは、後藤祐乗家代々の金工にて一家相伝の技巧あり、横谷系、吉岡系、亦名匠と称せらる諸国大名に扶持せらるゝ御控の金工に至りては屈指するに遑あらず、此処金工の事まで一々細記するの余白を有せず、

唯だ特筆すべきは中古以降、大阪に剣工名匠の斯く輩出したと云ふ一事である、九州は薩摩主水正正清、一平安代、肥前国武藤大掾忠広(肥前国忠吉同人)と近江大掾忠広父子、上々作の名工である、某藩士が忠広の刀を所持しけるに、同じく忠広の脇差を取揃へて大小同銘と為さんとて之を手に入るゝに、三十年を要したとの記事が某書に見えたるを覚ゆ、

三百諸侯の城下に刀剣欲求者ばかりにて名刀払底の旧時代には斯様の話もありしならん、南紀は文珠重国、備中は水田国重(大月与五郎)、江戸は虎徹、繁慶の名高く聞え、康継は幕府の御用鍛冶を以て知らる、古今無数の剣工が諸国に播殖して、日本精神の英華粋美を極む、

明冶維新に至り廃刀令の犠牲となりて一且廃棄せられたる日本刀が、今更に真価を発揮し、昭和十二年支那事変に際して、軍刀の需要頓に増し、日本刀に非らざれば、其用を為さず、と云ふ時期は已に後れたるが、今からでも出来るだけの保護を為すべきである、

大阪留守居役は藩主の命を受けて、諸般の大阪御用を勤めし者なれども、武具の購入、手入れ、修復等は御武具方と称する武具専任の役員が江戸に出て、又上阪して之を取扱ふ留守居役が必らず之に参与したるものと解せらる、無縁の事に非らざれば、茲に大阪剣工の概略を記したのである、


『諸藩蔵屋敷と大阪留守居役』目次/その2/その4

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