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さて跡部山城守は至つて凡庸の人物で、人を見るの明なく、遂に平八郎
をして乱をなさしめるに至つたのである。藤田東湖の見聞随筆に曰く、
丙甲の秋、大阪町奉行矢部駿河守勘定奉行に転ず、跡部山城守矢部の後
任を命ぜられ相代らんとする時、跡部は矢部に町奉行の故事、并に心得
なる事を問ふ、矢部、如此申送りたる後云ふ様、与力の隠居に大塩平八
郎なる者あり。非常の人物なれども、譬へば悍馬の如し、其気を激せぬ
様にすれば、御用に足る可き事なり。若し奉行の威にて、是を駕御せん
とせば、危きなりと語るに、跡部、只唯々としてありしが、退いて人に
語りけるは、駿河守は人物と聞きしに相違せり、大任の心得振りを問ひ
しに、区々として一人の与力の隠居を御するの、御し得めのと心配する
は何事ぞやと嘲りけるが、翌年に至り、平八郎乱を作し、程なく誅服す
と雖も、跡部奉行職無状と世大に指を弾じ、駿州の先見を称誉せり。
とある。
さて平八郎の乱の勃発を見るに至つた契機は、実に天保の全国的大飢饉
に存する。当時の状況を見るに、天保二三年の頃から気候は不順で五穀は
多く登らず、天保四年に至つて、遂に全国的のものと化した。天保三年の
全国の収獲は七分一厘であつた。例せば、上杉家は十五万石であつたが、
その損耗は実に九万八千三百石であつたと云はれてゐる。その翌年、佐竹
家では、二十万石に対し十六万七千石の損失であつた。これらは被害の甚
だしいものであるが、全国がそれ/゛\損耗して、そのため人気の消沈す
ることも甚しかつた。かくして引き続き年々不作で、天保七年に至つて、
更に一層甚だしき大饑饉となつた。平八郎は之を拱手傍観するに忍びず、
養子格之助をして、跡部山城守に見え、大き倉廩を開いて窮民は救はんこ
とを請はしめた。山城守は之に答へて、四五日を出でない内に必らず施恤
するであらうとの意を以てした。平八郎は大いに喜び、その日を待望して
ゐたが遷延久しきに渉り、遂にその事は実現されなかつた。こゝに於いて、
格之助をして催促せしめたが、奏功せなかつた。因つて再度格之助をして
峻請せしめたが、山城守は、江戸へ多量の米を廻送すべしとの命令がある
から、賑恤の挙は姑く之を見合すと答へた。平八郎は痛く当路者の態度に
憤慨を禁じ得なかつた。かくして遂に自腹を切つて救済の手を差延べんと
して、一切の蔵書を売却した。その部数一千二百で価六百五十両に上つた。
乃ち一万枚の切手を製し、尽く之を窮民に施与した。然るに山城守は平八
郎の此の挙を聞いて、格之助を召し出して私名を売らんが為めに猥りに窮
民に施与したるものとして大に譴責を加へた。
かくの如き事情が大塩の性格と相俟つて、遂に天保八年二月十九日に至
つて乱を起さしめるに至つたのである。彼は全く自己と云ふものを忘れて、
一般窮民を救はんが為め、已むを得ずして暴力に訴へんとしたのである。
当時彼の発した檄文を見れば、這般の消息は自ら明かになるであらうし、
又彼の心持がはつきりするから左にその全文を掲げることゝする。
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川崎紫山
「矢部駿州」
その9
幸田成友
『大塩平八郎』
その100
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