Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.7.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その5

雄山閣 編

『類聚伝記大日本史 第10卷』 雄山閣 1936 収録

◇禁転載◇

 二 経歴一般 その二−大塩平八郎の乱 (1)

管理人註
   

 さて跡部山城守は至つて凡庸の人物で、人を見るの明なく、遂に平八郎 をして乱をなさしめるに至つたのである。藤田東湖の見聞随筆に曰く、  丙甲の秋、大阪町奉行矢部駿河守勘定奉行に転ず、跡部山城守矢部の後  任を命ぜられ相代らんとする時、跡部は矢部に町奉行の故事、并に心得  なる事を問ふ、矢部、如此申送りたる後云ふ様、与力の隠居に大塩平八  郎なる者あり。非常の人物なれども、譬へば悍馬の如し、其気を激せぬ  様にすれば、御用に足る可き事なり。若し奉行の威にて、是を駕御せん  とせば、危きなりと語るに、跡部、只唯々としてありしが、退いて人に  語りけるは、駿河守は人物と聞きしに相違せり、大任の心得振りを問ひ  しに、区々として一人の与力の隠居を御するの、御し得めのと心配する  は何事ぞやと嘲りけるが、翌年に至り、平八郎乱を作し、程なく誅服す  と雖も、跡部奉行職無状と世大に指を弾じ、駿州の先見を称誉せり。 とある。  さて平八郎の乱の勃発を見るに至つた契機は、実に天保の全国的大飢饉 に存する。当時の状況を見るに、天保二三年の頃から気候は不順で五穀は 多く登らず、天保四年に至つて、遂に全国的のものと化した。天保三年の 全国の収獲は七分一厘であつた。例せば、上杉家は十五万石であつたが、 その損耗は実に九万八千三百石であつたと云はれてゐる。その翌年、佐竹 家では、二十万石に対し十六万七千石の損失であつた。これらは被害の甚 だしいものであるが、全国がそれ/゛\損耗して、そのため人気の消沈す ることも甚しかつた。かくして引き続き年々不作で、天保七年に至つて、 更に一層甚だしき大饑饉となつた。平八郎は之を拱手傍観するに忍びず、 養子格之助をして、跡部山城守に見え、大き倉廩を開いて窮民は救はんこ とを請はしめた。山城守は之に答へて、四五日を出でない内に必らず施恤 するであらうとの意を以てした。平八郎は大いに喜び、その日を待望して ゐたが遷延久しきに渉り、遂にその事は実現されなかつた。こゝに於いて、 格之助をして催促せしめたが、奏功せなかつた。因つて再度格之助をして 峻請せしめたが、山城守は、江戸へ多量の米を廻送すべしとの命令がある から、賑恤の挙は姑く之を見合すと答へた。平八郎は痛く当路者の態度に 憤慨を禁じ得なかつた。かくして遂に自腹を切つて救済の手を差延べんと して、一切の蔵書を売却した。その部数一千二百で価六百五十両に上つた。 乃ち一万枚の切手を製し、尽く之を窮民に施与した。然るに山城守は平八 郎の此の挙を聞いて、格之助を召し出して私名を売らんが為めに猥りに窮 民に施与したるものとして大に譴責を加へた。  かくの如き事情が大塩の性格と相俟つて、遂に天保八年二月十九日に至 つて乱を起さしめるに至つたのである。彼は全く自己と云ふものを忘れて、 一般窮民を救はんが為め、已むを得ずして暴力に訴へんとしたのである。 当時彼の発した檄文を見れば、這般の消息は自ら明かになるであらうし、 又彼の心持がはつきりするから左にその全文を掲げることゝする。



川崎紫山
「矢部駿州」
その9



























幸田成友
『大塩平八郎』
その100


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