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爾後平八郎は閑散の身となり、専ら学を講じ、書を著はし、兼ねて子弟
を教授した。やがて此の年九月、尾張に赴き祖先の墓を訪れた。天保三年
六月、彼の最初の著作である古本大学刮目七巻が上梓された。此年の六月、
彼が藤樹書院を訪れたことは注目に値する。翌四年、彼は洗心洞箚記と儒
門空虚聚語とを脱稿して上梓した。箚記は彼の学説を叙述せるもので、そ
の主義本領を窺知するに恰好のものである。箚記成るや平八郎は、富士山
に登つて箚記を石室に蔵め、尋で伊勢の山田に至り、足代弘訓を介して箚
記を神宮の豊宮崎林崎の両文庫に奉納した。更に之を佐藤一斎に送り、そ
の批評を請ふたのである。天保五年、彼は増補孝経彙註を著はした。こゝ
に於いて四分の書は完成した。即ち古本大学刮目、洗心洞箚記、儒門空虚
聚語、及び増補孝経彙註で、所謂洗心洞四部の書である。かく平八郎は致
仕後は力を専ら講学と著述とに注ぎ、実務からは全く遠ざかつたのである。
然しながら、高井山城守以後の諸奉行は、彼の才学と成望とに服し、その
施政に関し往々諮詢して決することが少くなかつた。就中矢部駿河者定謙
との関係は尤も親密であつた。駿河守は平八郎の才気を信任し、大小の事
悉く彼に諮詢したので、彼も亦その知遇に感じ、力を尽して翼賛し、民政
に於て釐正する所少くなかつた。見聞随筆に、
駿河守、一日平八郎を招き、閑談数刻に及びもやがて夜食を共にせしに、
談偶ま今を以て古に擬し、所謂時事の論に入り、甲是乙否、其酣なるに至
り、平八郎、皿にありしほう/゛\(魴)を取りて、頭より骨のまゝかり
/\とかぢりて、少しも気付かざりしと、後給仕に出でゝ此体を見たる士、
駿河守に、今日の客は気違ひなるべしと申せしに、駿河守、斯る事は他言
すまじと制止たり。
とあるが如何に物言に熱心であつたか、それと共に彼の燥急にして余裕な
き性行を察するに足るものがある。天保七年の春、矢部駿河守は転任して
江戸勘定奉行となり、四月二十八日に至つて、跡部山城守がその後任とし
て赴任した。かくして平八郎の乱は漸く当時の社会状勢と相俟つて、その
萌芽を生ずるに至つた。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その56
釐正
(りせい)
あらため正す
こと
川崎紫山
「矢部駿州」
その9
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