Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.7.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その9

雄山閣 編

『類聚伝記大日本史 第10卷』 雄山閣 1936 収録

◇禁転載◇

 三 平八郎の学風 (2)

管理人註
   

 さてこゝに洗心洞学名学則一篇を拉し来つて、平八郎の主義を窺ふことゝ しよう。之はとりも直さず、端的に彼の学説を示すものである。その文に 曰く、  弟子余に問ふて曰く、先生の学、之れを陽明学といふか、曰く否。之れ  を程子学朱子学といふか、否。之れを毛鄭賈孔訓詁註疏学といふか、曰  く否。仁斎父子の古学か。抑々徂徠、詩書礼楽を主とするの学か、曰く  否。然らば則ち先生の適従する所、将た何の学なるか。曰く、我学問只  仁を求むるにあるのみ。故に学、名なし。強ひて之れを名づけて孔孟学  といふ。曰く其説いかん。曰く、我学、大学中庸論語を治むるなり、大  学中庸論語は、便ち是れ孔氏の書なり。孟子を治むるなり、孟子は便ち  孟氏の書なり。而して六経は皆孔子刪定の書なり。故に強ひて之れを名  づけて孔孟学といふなり。(中略) 嗚呼孔孟の学、一の仁を求むるに  あり、而して仁は則ち遽に手を下だし難し。故に或は其訓詁註疏を読み、  而して其影響を求め、或は其居敬窮理の工夫により、以て其精微を探り、  その底薀を窮め、或は良知を致して、以て其易簡の要を握る、而して畢  竟各々皆孔孟の学に帰するのみ。然り而して孔孟数千百歳以前、既に逆  め数千百年歳の後、諸儒各々意見を争ひ、宗を立て、派を分ち、以て同  室の闘をなすを知る。故に孔子孝経を以て曾子に授け、之れを至徳要道  といふ。孟子も亦曰く、堯舜の道は孝悌のみ。是を以て之を考ふれば、  則ち四書六経、説く所多端なりと雖も、仁の功用遠大なりと雖も、其徳  の至、其道の要、只孝にあるのみ。故に我学、孝の一字を以て四書六経  の理義を貫く。力固より及ばず、識固より足らず、然れども之れを心に  求めて、真に心中の理を窮め、将に死を以て斯文に従事せんとす。故に  直に孔孟学といふ。是れ乃ち僭に似て僭ならず。吾徒小子宜しく奉遵す  べし。而して若し我学を問ふものあらば、則ち之れを以て答へて可なり。  嗚呼其所生を忝うして、然儒を以て自ら冐すものは、則ち孔孟の罪人  にあらずして何ぞ。  かく平八郎はその奉ずる所の学を孔孟学と称してゐるが、実は陽明学に 外ならない。彼は別に師伝なく、全く独学によつて姚江派に帰するに至つ たのである。彼は陽明学全書を得て専心研磨するに至つたが、不幸にして 肺病に嬰り、死地に入ること再三であつたが、幸にして治癒した。平八郎 は之を以て天祐と為し、爾来身を殺して仁を成すの志を立てゝ、学を講じ、 道を修めることを務めた。その弟子に示す文中に云く、  書を読み道を講ずるもの、黙して以て之れを識り、謙以て之れに居り、  而して忠孝の変に当り、身を殺して仁を成す、是れ其止まる所なり。  かくの如き決心主張の下に、平八郎は実践躬行するに至つたのである。



幸田成友
『大塩平八郎』
その186

井上哲次郎
「大塩中斎」
その18
 


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