Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.1

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大塩の乱関係論文集目次


美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎の関係

−大塩はなぜ美吉屋に潜伏したか−

その5

井形正寿

1989.3『大塩研究 第25号』より転載


◇禁転載◇

(五)

 この背割下水は大坂城築城とあわせて街づくりの一環として豊臣秀吉が計画し、豊臣時代から徳川時代にかけて完成したもので、大阪の町に張りめぐらされた下水溝の総称で一名「太閤水道」とも呼ばれた。家屋の裏側で家と家が背中合せになっているところを下水が割るように流れていたから背割下水と呼ばれた。大阪市は明治二十七年に下水道改良工事を手がけ、この背割下水の溝床にコンクリートを打ち、U字型とし、表面にモルタール を上塗りして下水の流れがよくなるように改造するとともに、青天井の開渠であった(もっとも道路横断の箇所は石蓋が敷設されていた)ものを全部石蓋で暗渠化して下水道とした。背割下水は明治初期には総延長約三百五十キロあったが、現在は市内の東区、南区、西区を中心に延長約四十キロが生き残って今も使われている。美吉屋宅裏の背割下水を昭和六十一年九月に大阪市下水道局のご好意で調査させていただいた時、護岸の栗石や漆喰 が使われた江戸期の姿を生々しくそこに見ることができた。

 美吉屋は染物屋という職業柄から、水を大量に使っていた*15はずであり、排水に都合のよいように背割下水と建物の内部でつながっていたのではなかろうか。また美吉屋の東三百メートルに東横堀川、南二百五十メートルに阿波座堀川があって美吉屋の背割下水道とつながっていたことから、この背割下水道が大塩父子の逃走、潜伏に大きな役目を果たしていたと考えられる。

 それからもう一つ重要な目的即ち大塩父子が火薬を携帯して秘かに美吉屋方に潜入するには背割下水道が最善のぬけ道ではなかったか。天保八年三月二十七日、大坂城代土井大炊頭から差向けられた捕手に美吉屋方が取り囲こまれた時「大塩父子懐中よりえんしょうをまき散し、自分に切腹いたし、火に入、焼死仕候」*16また土井大炊頭家来、時田肇以下八名の捕手の報告書に「同日朝五ツ時頃、焔硝之煙立、すさまじく響や否、家燃上ル、近隣之者共又もや鉄砲乱発らしと騒動する」また「火薬を相用候哉、合薬の匂ひ仕候様相覚申候」*17と火薬の使用が記述されている。この捕手一行に同行した天満の惣年寄今井官之助は消防人夫を指揮し、大塩父子の死体の検分にも立会っているが、後年の談話に、美吉屋の出火の際、火の手は「機械仕掛」のように直ぐ火が出てよりつけなかったが、これは焔硝を使ったからだと話している。このほか「打手役人差向ふ所、早大塩さつし、焔硝を火鉢ニ入、腹十文字ニ立切、彼火鉢之中へ頭を入、死したりける」*18などの記録がある。この物騒な火薬を大塩父子は表から堂々と携帯して持込んだとは考えられない。


[注]
*15 『大塩研究』二十二号の拙著「美吉屋五郎兵衛の家業  についての考察」参照
*16 *6の『甲子夜話』三篇4、巻四十二の五頁
*17 *7の『大阪編年史』第十九巻一〇〇頁、九八頁
*18 大阪市史編纂所編『近来年代記(上)』(昭和五十五年同所 発行)一四頁


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