Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.2

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大塩の乱関係論文集目次


美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎の関係

−大塩はなぜ美吉屋に潜伏したか−

その6

井形正寿

1989.3『大塩研究 第25号』より転載


◇禁転載◇

(六)

 大塩父子は西横堀川の川岸まで夕闇のなかを船で来て、すぐ川岸から開渠になっている背割下水にはいって、美吉屋宅の周辺で機を窺い潜入したのではないかという話を新聞記者に洩らしたために、昭和六十二年五月十九日付サンケイ新聞に「大塩平八郎秀吉″が手助け」「太閤下水通り逃走」「潜伏・商家裏に現存」と大見出しで美吉屋五郎兵衛と背割下水のことが七段抜きの記事となって報道された。ところが早速、五郎兵衛の子孫という人が、この新聞を見たと名乗ってでられたのにはびっくりした。

 この方は尼崎市の□□氏で、江戸期には屋号を阿波屋と称していた。この□□家のわが家の伝承では「大塩平八郎をかくまったために欠所となった。大塩は溝からはい上って家にはいって来た。祖先の名はサラサ屋五兵衛と云った」美吉屋五郎兵衛は染物屋を家業とし、天保期に流行したサラサ染にも手を出していたので、サラサ屋の五郎兵衛ともいわれていたようであるが、□□家ではサラサ屋五兵衛として伝わっている。大正九年に祖父(阿波屋八代目)がなくなるまで、西区の雑喉場で大徳″の屋号で魚の卸商をしていた。両親から聞いた話は「家の蔵の二階に大塩をかくまっていた。捕手の役人が来た時、大塩は自分の顔を火鉢に突っこんで焼いた。その時なにか書類を焼いたようだ」等ということが伝承されている。このことは記録とかなり符合する。このほか、二人の女中がいたが仲が悪く、一人の女中は薄々大塩潜伏を知っていたので役人に密告した。家にはおいなりさんが祀られていたというようなことも伝承されている。

 この□□家の先祖は代々を阿波屋喜兵衛と名乗っていた。しかし、□□家と美吉屋五郎兵衛がどのように結びつくのだろうか。美吉屋五郎兵衛夫婦の江戸評定所に於ける吟味の判決は、五郎兵衛は引廻しの上獄門。女房つねは遠島となっているが、夫婦はいづれも取調べ中に牢死している。ところが、娘かつは「急度叱」孫かくは取調べに際し「此かく相糺候処、幼稚ニ而何事も相弁不申候」として不問に付せられ、また、娘かつの処遇は「娘押込にて家に別条なし」「五郎兵衛娘は、家財は丁内へ御預けなりしが以御憐愍其儘被差置十二月に至欠所と成、娘一家へ引取となる」*19と寛大な扱になっている記録からすれば、娘かつと孫かくは美吉屋五郎兵衛の係累の子孫として生き延びたこととなる。この両名と阿波屋喜兵衛とが、どのように繋がるのであろうか。考えられることは、いま□□家に残っている一枚の古い戸籍謄本に「□□喜兵衛妻、カ子、天保二年六月十五日生、明治二十六年十月十三日死亡」とある女性は、大塩の乱当時数 え年七歳であるから、カ子と書いてカネと読むのか、このカ子こそは孫かくのことではないだろうか。かくの年齢は記録では八歳*20となっているから一歳の違いである。このカ子は戸籍上では「父、喜兵衛長女」となっているので、考えられることは、娘(生き別れの後家)かつはかく(カ子)を連れ子して阿波屋六代目の□□喜兵衛の妻となりかく(カ子)は同人長女となり、後年入婿の養子、阿波屋七代目の□□喜兵衛の妻となったと私は推理する。しかし、真相はわからない。カ子の夫、□□喜兵衛(阿波屋七代目)は明治十一年十一月二十二日に死亡している。戒名は泰然広歓信士といい、享年はわからない。なお、□□家は大阪・福島区上福島にあった五百羅漢の寺として有名な妙徳寺(現在は東大阪市額田町に移転)の檀家で、□□家の墓二基も同寺にある。妙徳寺は明治四十二年の天満の大火にあい、寺はもとより過去帳なども灰燼に帰してしまったので、この面からの□□家の追跡調査が出来ないことは残念である。


[注]
*19 *11の『浮世の有様』五〇〇頁、五二七頁
*20 大阪府立中之島図書館蔵『大塩逆騒実誌』及びI氏所蔵『時ならぬ浪花乃花火』等個人所蔵文書等にかくは八歳としている。


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