Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.3

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大塩の乱関係論文集目次


美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎の関係

−大塩はなぜ美吉屋に潜伏したか−

その7

井形正寿

1989.3『大塩研究 第25号』より転載


◇禁転載◇

(七)

 この□□家に伝わる家宝ともいうべきものに、安芸宮島・厳島神社の木版刷弁財天の掛け軸がある。天保四巳年六月、阿波屋喜兵衛と書かれた箱書のなかにはいっている。もう一つは美吉屋五郎兵衛ほか六名が江戸評定所へ召喚された時の行列絵図がある。幅十六センチ、長さ二・五メートルの紙製の巻物である。その冒頭には「当御屋敷へ御封ジ相成申候事、七月十三日」とあり、続いて

 の行列が書かれてあり 行列の前後左右には挑灯持、徒歩小姓、小物、中間、文箱かつぎなど多数が書きこまれ、大塩の乱関係者の吉見九郎右衛門、竹上万太郎、安田図書、大西与五郎、美吉屋五郎兵衛、大井正一郎の六名が警固の者に前後を囲まれている。

 記録によれば、大塩の乱関係者の江戸評定所召喚の最初の一行はこの六名に美吉屋五郎兵衛の女房つねを加えた七名が天保八年六月二十九日に大坂を出発している*21。 七月十三日に江戸南町奉行所に到着したあと、つねを除いた六名は肥後熊本城主細川越中守預となり、つねについては「改入牢」「一通り尋之上、揚屋へ差遣す」*22「入牢に相成候由」*23などが散見せられる。これは病気、女牢屋敷の問題等何等かの理由でつねだけは江戸南町奉行筒井伊賀守預となり、揚屋入りとなったという記録(天理図書館蔵本)がある。しかし公式記録の吟味伺書には「酉七月十六日江戸江召呼び入牢、同十一月十三日病気ニ付溜」*24となっている。

 この行列絵図は、恐らく江戸到着のあと、細川越中守屋敷へ六名を引渡した時の絵図と思われる。それは細川越中守屋敷から吟味のため、評定所へ六名のものを総人数二百六十名の警固のもとに引出した時の行列にも、細川家の家来と思われる竹原九左衛門、高田次郎介、小嶋権兵衛、津田源八、木村十左衛門などの名前が見える記録がある*25。安井家に伝わる行列絵図にも竹原九左衛門以下同じ顔ぶれが見えることからして、美吉屋五郎兵衛はじめ六名の者を細川屋敷に引渡した時の行列絵図とみて間違いないだろう。

 この行列絵図がなぜ□□家に伝わったかということについては、詳しいことはわからないが、安井家の言い伝えでは、美吉屋五郎兵衛夫婦は、唐丸カゴで江戸へ連行され、この連行の行列に身寄の者がついて行ったという。このことから考えられることは、この行列絵図は細川家の家来の者に書いて貰い、大事なものだからと家宝にして伝えて来たということがことの真相のようだ。行列絵図には五郎兵衛女房つねが書かれていないのは、先に述べたように細川家の預となっていなかったことによるものと思われる。


[注]
*21 *11の『浮世の有様』三五八頁及び*9の『浪花風聞誌』二巻「此時捕手役人ハ西奉行所之手より」の五丁
*22 *6の『甲子夜話』三篇4、巻四十二の二六頁
*23 *11の『浮世の有様』三六一頁
*24 *5の『大塩平八郎一件書留』一三五頁
*25 *11の『浮世の有様』三六〇頁


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