Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.4

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大塩の乱関係論文集目次


〔今 井 克 復 談 話〕
その4

吉木竹次郎速記 『史談会速記録 第6輯』 史談会 1893.7 所収


適宜改行しています。


 明治廿五年十月十二日午前九時五十分今井克復君臨席

  〔惣年寄の仕事〕

私共は其朝まで何も知らず自分の持場の惣会所と申処へ早朝より出まして、之れへも奉行の巡見かありますから待受て居ました所、俄に跡部の家老高橋勝右衛門、飯田又左衛門と云ふものより手紙を以て呼ひに来たと云ふ様なことで、

一体私共は町奉行の支配で市中の事は惣轄いたし裁判又は刑事に係らぬことは、私共の負担にて手にかけぬ物は有ません、先只今の区長の様なもので、夫れを累代継続致して元和年中より勤め来て居りました、明治の初め惣年寄又は大年寄惣区長の改称を受ました、旧幕中には市中の消防を同僚一体にて引請けて居りました、

  〔奉行からの呼び出し〕

大坂を五区に割り上町、天満、北船場、南船場、西船場と区別いたし千五百人の消防を指揮いたしました、夫れか為めに前に申た通り十九日の朝でござりますが、奉行の家老から容易ならぬ義が出来した故、跡部山城守の役宅へ消防人足召連駈け着くる様にと云ふことで書面が私へ来た、

直ぐに夫より東奉行所へ参ります途中が私の宅ゆへ、立寄て火事羽織を来て消防組頭に達して、町奉行所に集まる様に言付けました、私の宅は大塩の近辺で、天満橋の通りて今井町と云ふ所で、奉行所に行つたところが、与力が一人斬られて居ります、

俯いたなりで奉行から貰ふた肩衣を着て居る故絞所も分明で有ませんから誰ともわからぬ、私の仲間の者が先きに駈付て居りましたから何か喧嘩かと尋ねますると、平八郎の徒党の事よりして死人は小泉淵次郎なるよし聞きました、

其訳は昨夜宿直を致した与力小泉淵次郎、瀬田済之助の二人捕縛にならふと云ふ所を済之助は隠れ所知れず、淵次郎は斬棄てになつた所と云ふことで、夫れは予ねて大塩の一味に加はり、昨夜宿直当番の者と代り合両人居残り、当日巡見の時奉行を朝岡にて討ち取つたと云ふことが知れば、其機会に奉行所へ火を掛ける策であつた、

其事を十七日の夜に町目付といふ役をいたして居ました平山助次郎が返り忠を致しまして、山城守の手許に密訴を致しまして、連判書の写しを出した、

これが二日前の夜の事で、夫れから奉行所で山城守も(話は後とに戻りますか)心配致して、暫時も棄て置かれぬと召捕の者を差向ねバならぬ所なれども、組の者には親類などもあれバ、其中に如何ほど一味に加はつて居るかも分らぬ、其連判書は平山から出したけれども、平山の加名せしは正月の事ゆへ夫れから後とは幾人加はつたかも分らぬから、容易に手を出しかね、

其時山城守の手元に居るものも疑敷き次第で、どふかして平八郎の方へ知れぬやふにと、ひそかに召捕たきものと工夫を凝し、十九日の巡見を止めましては捕方が困難で有ますから、夫れを包みて翌十八日は裁判の立会日にて堀伊賀守も東奉行所へ自ら出て参ることで、十八日の日に両奉行申合はす事に成まして、

その日に堀伊賀守が跡部山城守の所へ来るのを待つて、評議の上老分の与力萩野勘左衛門(東組)吉田勝右衛門(西組)は老人で何の役にも立たぬものであるから、連判書の中には入て居るまいと考へて話すと、何も存せす驚入たる体ゆへ、色々相談を致す中も勘左衛門申立によつて、

平八郎の叔父に同組与力大西与五郎と申すものを先平八郎宅へ差遣し、一通り申諭させ用ひざれバ差違へて死ぬる様と、山城守より申付ました所が途中より出奔いたしましたと申事にて、どうしても平八郎を召捕る策が付かぬ、

  〔瀬田済之助、小泉淵次郎のこと〕

かれこれ評議中終に十八日も暮に及ました所が、前に申ました瀬田、小泉の両人連判中に名も顕れて有て東奉行所に泊つて居つて居るものであるから夫れを先づ召捕らふと云ふことで、十九日の早晨に山城守の面前へ呼付ますると、

瀬田済之助は便所へ行くと云つて立ち、小泉淵次郎先づ一人山城守の前に出ることになつて、左様致しますと山城守は御用談の間に居り、此席は常に出席して与力などに会ふ所で、小書院より進み来る入側の疂廊下近習部屋の前は、常に奥へ出る者の脇差を置く所で、淵次郎がこゝに脇差を置いて、山城守の前に出る隙に其脇刺を近習部屋より取入る手筈で待て居ると、其通にいたして奥へ行く所を直ぐと障子を明けて脇差を取入れた、夫れが少し早く有ましたから尻目に掛けたと見へて、懼はいと思つて居つたものであるから、山城守面前へも出ずにすぐ逃出しました、

するとソコに居合せた剣術の師範を致します一条一(ハジメ)と申者と、中小性両人追駈けて大書院の側に出やふと云ふ弓の間と申所にて、山城守も追掛けて来て切れと云ふ差図が有ますや、いきなり一(ハジメ)壱人にて間寸脇差尺七寸位のをぬいて、後ろから斬付けましてトゞメを刺しました、

モウ一人が知れぬと云つて探します所へ、私が急ぎて奉行所に参る、天満橋の上で、瀬田が跣で刀を落し刺しにして南より走り来るのに逢つた、私はいまだ何の心も附かぬものであるから、何事と云ふと怪しからぬ事と云つて行違ひました、

奉行所へ参ると瀬田を探して居る様子で、今私が天満橋の上で逢つたと云つたものであるから、夫れで始めて瀬田が奉行所を逃げたと云ふことが知れ、私は山城守の前に出て途中で逢つたことを言ひました、

  〔天満橋などの切り落としのこと〕

夫れより露顕した事が知れたと見へまして、瀬田の帰つた時分は朝の五ツ時頃で、煙が上つて市中は火事と云ふて騒ぐ、半鐘を打つ、さう致すと山城守の指図で消防人足を以て天満橋を落せと云ふことで、天満橋は南に東町奉行所、北は天満にて大塩の宅とおもふ所に烟がたつて西へ向ふ体ゆゑ、天神橋へ人数を廻し切落しかゝりましたがそれへも来らず、

又難波橋を切落しかける所へ北から籏の如きもの押立て大勢甲冑の者もまじりて、始め宅をいつる時は奉行を討つ手筈は相違しましたなれども、朝岡より放火いたし裏手の松平下総守邸内の東照宮を焼き、仲間の与力町などを火矢にて焼立てます、

夫れから十丁目へ出て天満天神の社の宝庫等に火を掛け難波橋迄来た、其橋を渡ると今橋通にて大家斗で鴻池善右衛門、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛、三井両替店をはじめ豪家の宅に火を掛けて土蔵に棒火矢、大砲を撃ち焼き立ました、


島野三千穂「大坂の町組与力・同心の副収入」二 大坂の消火体制
森鴎外「大塩平八郎 二、東町奉行所
相蘇一弘「大塩の乱と大阪天満宮」その2  


〔今 井 克 復 談 話〕目次その3その5

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