Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.8.20訂正
2000.7.30

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その17

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.6/7 所収

◇禁転載◇

朝日新聞 明治三十一年十月六日
大塩平八郎 (二十) 猪俣生

  其五 洗心洞

夫れ進んで政を天下に為す能はずんバ、退て天下の英才を得て之を教育するハ、古来聖賢世に処するの大道にして、士君子の天下の重を以て自から任ずるもの、未だ曾て此二者を以て終生の目的とせざるものなし、平八郎も亦夙に茲に志すあり、故に出でゝ政に与(あづ)かり、以て斯民(しみん)の為に尽すの傍又其余暇を以て四方の俊髦を集め、之を薫陶教育するに勉めたり、平八郎ハ何歳の時に於て教授に従事したるかハ之を知るを得ずと雖も、前後の事情より推測すれバ、極めて年少なりしに似たり、彼が党与中乱後捕縛せられたるものゝ言に、徴するに、忠兵衛の調書にハ、 の語あり、又竹上万太郎の調書にハ、 の語あり、夫れ天保丁酉の乱ハ平八郎が四十四歳の時なり是より二十四五年以前ハ即ち彼が十九歳若くハ二十歳の時にして、二十七八年以前ハ即ち彼が十七歳の時たり、昔菅原麟嶼(りんしよ)ハ十三歳にして儒官と為る、徂徠之を目するに千里駒を以てし、天下嘖(さく)々として称賛せざるハなし、今平八郎志学の年にして既に徒を集めて学を講ず、是儒林の甚だ稀なる所なる可し、特異卓出の士に非らずんバ焉ぞ能く此に至るを得んや、

平八郎其居所を名づけて洗心洞と云ふ、想ふに是 れ周易繋辞伝中の聖人以此洗心の句より命名せしものなる可し、而して之に附随して三箇の塾舎あり、蓋し彼ハ出仕の当時其家に於て講学に従事し、其後門生の漸く増加するに及びて、別に塾舎を建設したるものなる可し、当時平八郎と来往せしものゝ語る所に拠るに、与力町に於ける彼の邸宅後に広濶(くわうくわつ)なる空地あり、彼ハ此地を借りて漸次に三箇の学舎を建て、之を故塾、中塾、新塾と名づけ、其講堂の【門/広】恢(くわうくわい)広濶なることハ宛然小諸侯の黌舎の如く、扁額に朝鮮李静庵の揮毫せる孔孟学黌の四大字を掲げたりとぞ、而して彼ハ講学の外別に武伎を教へ、大に門生を奨励したるを以て、来学者大に進み、前後来学するもの千人の上に出で、在塾生徒常に百人に近かりしと云ふ、吾人ハ今洗心洞の入学盟誓より採録すべし、


朝日新聞 明治三十一年十月七日
大塩平八郎 (廿一) 猪俣生

  其五 洗心洞(続)

是れ平八郎が新来の門生に下す所の当面の一棒にして、其規律の厳粛なる懦夫をして興起せしむるものあり、加之(しかのみならず)彼ハ門生の来りて贄を執るものある毎に、必らず先づ忠孝の道を遵守し、且つ師の命に違背せざらんことを誓はしめたり、今乱後彼の党与の語れる口供に因りて彼が子弟に接する挙動如何を示さん、

平八郎の門人吉見九郎右衛門ハ、平八郎より長ず ること三歳にして、乱の初に当りて裏切を為した る卑怯者なり、彼の口供に曰く

(庄)司義左衛門の口供に曰く 而して伊勢の安田図書も亦曰く 此に由りて之を観れバ平八郎の教授法の他人に異なる所ありしや知る可し

現今滔々たる薄志弱行の徒、平八郎に遭はずして雷霆の如き恫【心曷】と、両点の如き鞭朴を免がるゝことを得たるハ何等の幸ぞ、又平八郎の門下に遊び性命道徳の高説を聴きて以て其隋性を点化すること能はずして、遂に酔生夢死の人と為りて了るハ何等の不幸ぞ


大塩平八郎関係年表


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