その16
『朝日新聞』1898.10.5 所収
朝日新聞 明治三十一年十月五日
大塩平八郎 (十九) 猪俣生
而して吾人の聞く所を以てすれバ平八郎ハ別に学礎なる書を著はし、其説く所ハ今日の幾何学に類するものにして、今日現に其書を蔵するものありと、然れども吾人ハ不幸にして未だ其書を見るを得ざるを遺憾とす、
此の如く平八郎ハ其辞職後只専ら力を講学と著書に用ひしと雖も、而かも高井山城守以後に来る所の諸奉行ハ、平八郎の威望と才学とに服し、其施政に関して難件ある毎に、往々彼に諮詢して之を決せしを以て、其勢力ハ常に隠然諸奉行の上に在り、而して平八郎の最も親善なりしハ矢部駿河守なりき、想ふに是れ矢部駿河守の気魄、才幹、平八郎と相近似したる所ありしが為ならん歟、
天保七年春に至りて矢部駿河守の転任して江戸勘定奉行となるや四月二十八日を以て其後職として跡部山城守大阪東町奉行に任ぜらる山城守其器凡庸人を知るの明なく、平八郎の気岸を挫かんとして遂に獅子を怒らしむるの愚を為せり、
東湖随筆に曰く、
曾遊二十二年前、 村壑再尋依旧鮮、 今日思深似前海、 彷徨不独為詩篇、 人随無事酔明時、 柔脆心腸如女児、 却衝秋熟攀山険、 誰識独醒嬉独知、嗚呼是彼が事を挙げんと準備せし当時の詩なり、語句の間既に髣髴として其胸中の一大決心を洩すを見る、其「今日思深如前海、彷徨不独為詩篇、」と云へるハ、彼が心中の鬱積已む能はずして、事を起さんが為めに地形を点検するの意を顕はすに非ずや、又「人随無事酔明時、柔脆心腸如女児、」と云へるハ、是れ徳川の弊政を憤ほり、士気の腐敗せるを慨するの意を顕はすに非ずや、然れども彼ハ此際に於ても、尚ほ独知の工夫を忘れざりし、知る可し丁酉の一挙ハ、自己の天良に問ひて起したるものなりしを、
夫れ矢部駿河守にして去らずんバ、跡部山城守ハ来らず、跡部山城守来らずんバ、平八郎ハ起ず、今や駿河守既に去れり、是に於てか山城守来れり、山城守既に来れり、是に於てか平八郎ハ奮然として起て一打撃を試みざるを得ず、世の治乱ハ一として執政者の良否に関せざるハなし、誰れか乱常に下より起ると云ふや、