その3
『朝日新聞』1898.9.19 所収
朝日新聞 明治三十一年九月十九日
大塩平八郎 (四) 猪俣生
夫れ寧教我負天下人、休教天下人負我とハ曹孟徳が歴史に於ける開宗明義の第一章にして、親を逐ひ国を奪ふの計画ハ武田機山が出世に於ける最先の事功なり、蓋し人の一代に於ける志望ハ多くハ最初の一着に顕はる、年少平八郎の眼識既に当時士風の衰頽せるを看破し、出仕の初頭に於て之を一振せんと建策せしを観れバ、他年彼が風俗の凌夷し士気の腐敗せるを憤りて、一撃を之に下すに至りしもの固より怪しむに足らざるなり、
然れども閲武の一事必らずしも平八郎の首唱に非ず、是より先き松平定信の田沼意次に代りて天下の政柄を執るや、大に武事を奨励し、天下の人をして「ブンブブンブとよるも寐られず」と謡はしむるに至り、殊に寛政三年十月二十九日を以て幕府ハ江戸に於て大番頭より小普請に至るまで武術免許のものハ年々上覧あるべしと令し、是より諸武士の武芸を閲すること年々の常例と為れり、江戸既に然り、諸国亦然らざるなかる可し、然れども平八郎出仕の時ハ定信の治世を去ること已に二十年に近く、水野出羽勢威を得て、寛政の美風漸く将に地を掃はんとするの時なり、是れ彼れの憤慨して此建策を為せる所以なる歟、
平八郎の才と識とを以て職を区々たる一騎士に奉ず、材の任用既に其所に非ず、况んや初て職に就くものハ、先づ見習として役所に当直し、徒に市庁の典例故事に通ずるを勉めしむるのみなるをや、想ふに平八郎の此間に処する、恰も驕気龍鐘村客家、三年虞阪苦塩車の感あるを免かれざりしなる可し、吾人ハ此間に於ける彼の逸事として唯左の一話を知るのみ、
平八郎甞て当番所に当直するや、一日某邑の里正無調印の訴状を捧ぐるあり、平八郎之を詰(なぢ)れバ里正叩頭陳謝して曰く、今暁出宅の時印を首に掛けり、今にして之を求むれバ復た有ることなし、蓋し忘失したるなり、然れども訴状の事急なり、是れ此過(あやまち)ある所以なり、平八郎曰く、汝印を首に掛くるを知りて、之を心に掛くるを知らず、是忘るゝ所以なり、以後之を慎しめよと、嗚呼何ぞ彼の言辞の機警なるや、吾人ハ此逸話を記するに当りて、端なく古昔(むかし)陽明先生が南屏山中に於て、口巴々眼【目争】々(さうさう)の一喝を以て、三年不語不視の苦行を為す所の禅僧を驚起せしめたるの一事を想起せずんバあらざるなり、平八郎天分に於て既に陽明先生の気格を有せり、彼れが后年先生に私淑するに至りたるもの固より怪しむに足らざるなり、