Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.8.11

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その22

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.12 所収


朝日新聞 明治三十一年十月十二日
大塩平八郎 (廿六) 猪俣生

  其六 平八郎の人物及交友

平八郎の履歴を知るものハ、必らず其交友の区域の極めて狭隘なりしを恠しむならん、彼の学術あり彼の識見ありて、而かも其交友の極めて少なきハ何ぞや、

蓋し大阪ハ、三都中文教最も後に開けたる地にして、随つて読書人の他に比して最も少かる可きハ自然の勢なり、然れども享保中、中井甃庵が懐徳院を建て、其子竹山箕裘(ききう)を継ぎて益々之れを拡張するや、四方の俊髦来学するもの甚だ多く、隠然海内の重鎮と為り、寛政文化間の学者ハ大抵其鼓舞薫陶に出でたり、

竹山、当時東ハ細井渋井の輩と通じ、西ハ長門の瀧鶴台、熊本の秋山玉山等に交り、近くハ京師の書家成竹活園、赤松滄州、柴栗山等に接し、片山北海を推して混沌社を結び、頼弥太郎、尾藤良助、河野恕竹、脇愚山等前後来遊して学を講ずるもの極めて多く、加ふるに肥前の古賀精里、肥後の薮孤山、筑前の亀井道載、筑後の樺島石梁、豊前の倉成龍渚、豊後の三浦梅園等、一時の英才皆竹山に結託せり、故を以て松平定信の寛政の新政を布かんとするや、彼れハ大阪を以て人才の驥北と為し、親しく此の地に就いて輔弼参画の士を抜摘するに至れり、仮令平八郎が丁年に達する比ほひハ 竹山既に没し、学術界の大統系ハ全く破ぶれたるに近しと雖も、其子弟門生ハ尚ほ各地に森立星羅せざるハなし、若し求めて之と交はらんと欲せバ豈友とすべきものなからんや、而して尚ほ彼が索莫として孤立せし所以のものハ何ぞや、夫れ雀鴉ハ独居せず、虎豹ハ群棲せず、彼が奉ずる所の学術と、彼が天禀の気質ハ、固より他をして彼に交ることを憚らしめたるのみならず、亦彼をして此圭角なく、主張なく、徒に詩酒文墨に徴逐吟唱して、相歓狎する所の文人的交際を排せしめたるなり、

聞く当時笈を負ひて四方に遊歴する者、往々にして曰く、大阪に到りて大塩中斎先生に面会するや、気象崢【山榮】、壁立先仭の概あり、覚えず戦慄して語るべき話頭を失ふ、而して東海道に出て、参州豊橋の百花園を訪ひ、渡辺華山先生に謁するや、春 風和煦、欣薫懽如、唯其親しみ易きを見るのみと、篠崎小竹も亦当時に於ける一方の儒者なり、或る人彼を介して平八郎に面せんことを乞ふ、小竹 平八郎を畏るゝこと虎の如く、輙く肯かハずして曰く、子の如く粗暴のものハ必らず弼をして罪を中斎先生に得せしめん、他人ハ可なり、中斎先生に至りてハ則ち不可なりと、而して平八郎小竹輩を蔑視して之を視ること賈竪商奴に■し、是を以て当時の諸老先生、己の素行特操なきを恥ぢ、勉めて畏避して之と相見ざらんとせり、而かも平八郎が一旦事を挙げて敗ぶるゝや、皆曰く、果然此事あり、是れ吾輩が甞て彼と相見ることを欲せざりし所以なりと、平八郎も亦彼等の気節なく徳行なくして徒に風を■(やぶ)り俗を害するを憤恚(ふんい)し、談此に及ぶ毎に輙(すなは)ち罵りて曰く、吾をして憲職に陞らしめバ、是輩の首札々として斫りて地上に駢ぶ可きなりと、彼が交友の少なきハ豈恠しむに足らんや、


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