Я[大塩の乱 資料館]Я
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その23
猪俣為治
『朝日新聞』1898.10.13/14 所収
朝日新聞 明治三十一年十月十三日
大塩平八郎 (廿七) 猪俣生
其六 平八郎の人物及交友(続)
平八郎の最も深く交を訂せしものハ、独り頼山陽に止まりしが如し、彼ハ其洗心洞箚記を著すや、其附録に山陽の詩文と共に一篇の追思記を附載して、以て殷情傾倒の深きを示せり、其文に曰く
夫山陽の善く詩文を属し、史事に洞通するハ、詩客文人の知る所にして、我ハ則ち甞て吏と為り、訟獄に与参し、且陽明王子の致良知の学を講ずる者なり、世情を以て之を視れバ、則ち山陽と相容れざるものゝ如く然り、然れ共往来断へず、送迎絶えざるハ何ぞや、余の山陽に善きハ其学に在らずして竊に其膽ありて而かも識あるを取るなり、而して山陽の何の観る所ありて
我に善きか吾初識らざるなり、庚寅の秋余致仕の後、尾張宗家大塩氏に行き、以て祖先の墳墓に謁す、是時に当りて山陽序を製りて吾の行を餞し、其人の言ひ難き時事に於て、彼独能く口を開きて之を言ひ、而かも忌憚の情態なし、則ち豈其膽の発見に非ずや、余に戒むるに再び【革冓】(こう)と【馬/廾】(しよく)とに就かざるを以てすれバ、則ち亦其識の大略を見る可し、余甞て山陽に陽明全集を貸す、読了りて乃ち七言絶句一首を賦して以て余に示す、余の所蔵の趙子壁蘆雁の画幅ハ、山陽朶頤之を久うす、京より浪華に到り、三び余の家に到り之を乞ふや切なり、遂に抛て之を与ふ、乃ち又七言古詩一首を賦して以て之に謝す、其後山陽遽(にはか)に来りて曰く、茶山翁の遺杖を某津頭に遺れ、捜索すと雖も既に有るなし、兄(けい)の力を以て之を獲バ則ち幸甚と、之を捜(そう)して獲たり、専价もて送りて曰く、老竹幸に未だ化して龍とならず、猶ほ潜みて某の水辺に在り、之を獲以て子に還す、子今より宜しく放失するなかるべしと、之を謝するに又七言古詩一詩を以てす、其日本外史を撰する時、余の所蔵の胡致堂先生の読史管見を借らんと乞ふ、而して蔵書軽しく外人に貸さず、自ら謂へらく、山陽の著撰ハ善を勧め悪を懲して蓋し世を益せんと、故に門人を遣はし持し以て之を貸す、読み了りて之を余に還し、之に謝するに又七言古体一詩を以てす、外史脱稿す、我之を求む、写本一部を寄す、其報を問へバ曰く、他人に於てハ則ち黄白、兄の如きハ報なしと雖可也、若或ハ強て之を賜はバ、則ち兄の常に佩ぶる所の刀一口(ひとふり)を脱して以て之を投ぜよ、当に身を衛るの物と為さんと、因りて之に報ずるに月山の造る所の九寸有余の短刀を以てす、又七言古詩を裁して以て之に謝す、山陽甞て余を訪ふ、時に余 将に衙に上らんとす独書斎に入り、五言古詩を賦し、諸(これ)を壁上に粘し以て去る、壬辰の四月、山陽又江を下り、觴酒の際山陽余に謂つて曰く、兄の学問ハ心を洗ひ以て内に求め、襄の如き者ハ外に求めて以て内に儲(たくは)ふ、而して詩を作り而して文を属す、相反するが如く然りと、然れども一たび吾古本大学刮目の稿を見んと請ふ、故に之を出して以て示す、其綱領を読み畢(をは)りて曰く、是一家の言に非ず、昔儒格言の府なり、襄や不敏と雖も請ふ之を序せんと、余答て曰く、他日之を煩はさんと、而して復未刻の箚記若干条を以て亦示す、其読みて半を過ぐるや、日既に暮れて之を尽す
能はずして曰く、上梓を待つて以て之を評さん、然れども今一見する所の條々、聖学の奥に於て間然する所なしと、深く太虚の説に服すと云ふ、而して其秋山陽血を吐き病革(あらたま)ると聞き、洛に上り、其家に到れバ則ち其日既に易簀(えきさく)す、大哭して帰る、夢の如く、幻の如く、往時を追思すれバ、向きに山陽余を訪ひ、、觴酒の際其情の【糸遣】綣(けんけん)たるハ、其果して永訣の兆歟、嗚呼傷哉嗚呼悲哉、今山陽をして命を延して在り、箚記両巻を尽さしめバ、則ち彼に益せずと雖も必ず我に益するもの蓋し亦少からざらん、唯是余の一生涯の遺憾なるのみ、
朝日新聞 明治三十一年十月十四日
大塩平八郎 (廿八) 猪俣生
其六 平八郎の人物及交友(続)
山陽の子芸藩の頼余一ハ、余未だ相識らざるなり、越えて癸巳の夏四月、余一東都より芸に還り、便道、余を浪花の弊舎に訪ひ、謀るに其考の碑面謚号(しごう)を鐫(けい)する字の大小を以てす、而して其時箚記刻既に成る、因りて之を余一に与ふ、吾心以て猶ほ山陽に贈るが如しと為すなり、然れども山陽にして霊あらバ、必らず両巻を尽さざりし憾を地下に含まんか、而して今其贈序の文に因りて之を観れバ、即ち我を知るものハ山陽に若くなきなり、我を知るものハ即ち我心学を知るものなり、我心学を知れバ即ち未だ箚記の両巻を尽さずと雖も、而かも猶之を尽すが如きなり、頃(このごろ)山陽の詩を梓するものあり、然らバ即ち必らず亦其文を刻するものあらん、其文を刻するものありと雖も、是一篇を竄去すべきハ
智者を待つて後に知らざるなり、是を以て余豈之を弊篋(へいけふ)中に蠧(と)するに忍びんや、故に入刻して以て友誼の万一を存するのみ、而して諸を其六詩の先に置き、年月の次第に拘はらざるハ他な
し、斯文乃ち吾躬に関係する所大なるを以ての故のみ、詩の如きハ則ち歳月の先後に照し以て編次す、嗚呼此独り知己の為に相忘るゝなきのみならず、抑々其亦陽明子の文章と其功業とに心服せしを明にするなり、
天保甲午秋八月 洗心洞主人識
是れ実に一篇の断腸記なり、情交極めて切実、文章極めて朴茂、杜工部が李白を哭するの真摯に、白馬将軍がワシントンを弔するの沈痛以てしたるものにして、一時之を読むものをして天昏壌惨の感を起さしむ、至りて友情に深きものに非らずんバ焉ぞ能く此に至るを得ん、然れども倩々(つらつら)両人の友情を考ふるに、平八郎の山陽を推すや、山陽が己れの学術を認識したりと想像せしに在り、故に「我を知るものハ即ち我心学を知るものなり」と云ひ、又「抑々其亦陽明子の文章と其功業とに心服せしを明にするなり」と云へり、然らバ山陽果して陽明に心服したるか、彼れ王文成公の全集を読むや、為儒為仏姑休論、吾喜文章多古声の句あり、山陽ハ道学的眼光を以て之を読まずして、文章的眼光を以て之を読めり、彼が陽明に対する態度以て見る可し、然るに尚ほ且つ平八郎が山陽に惓々たる所以のものハ何ぞや、是孔子の所謂中行を得ずして狂狷に与みするの意にして、山陽の気節稍俗輩に異なる所、端なく平八郎の意に投じたるにあらざる歟、
近藤某なるもの初めて平八郎に面会するや、平八郎偶々当時有用の人物を品評す、座に一士人あり、頼子成 を問ふ、平八郎曰く、士卒三十人を指揮するに於て何かあらん、篠崎承弼を問ふ、平八郎曰く彼緩急の際に莅(のぞ)みて其躬すら猶且つ措く所を失ふ、何の暇ありてか人を指麾(しき)するを為さんと、然らバ平八郎の山陽に対する推重の度亦知る可し、夫れ落々たる世間、終に一人の肝膈を吐露して以て学術道徳を談ずるものなく、空谷寂寞、僅に人に似たる者を得て、之と談ずるを喜びし彼の境遇を考ふれバ、其山陽を哭する所以ハ即ち自己を哭する所以なり、其文章の一字一涙、悽愴として無限の感慨を寄せし所以のもの何ぞ深く怪しむに足らんや、
「大塩平八郎関係年表」
猪俣為治「大塩平八郎」目次/その22/その24
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