Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.2訂正
2000.8.12

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その23

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.13/14 所収


朝日新聞 明治三十一年十月十三日
大塩平八郎 (廿七) 猪俣生

  其六 平八郎の人物及交友(続)

平八郎の最も深く交を訂せしものハ、独り頼山陽に止まりしが如し、彼ハ其洗心洞箚記を著すや、其附録に山陽の詩文と共に一篇の追思記を附載して、以て殷情傾倒の深きを示せり、其文に曰く


朝日新聞 明治三十一年十月十四日
大塩平八郎 (廿八) 猪俣生

  其六 平八郎の人物及交友(続)

是れ実に一篇の断腸記なり、情交極めて切実、文章極めて朴茂、杜工部が李白を哭するの真摯に、白馬将軍がワシントンを弔するの沈痛以てしたるものにして、一時之を読むものをして天昏壌惨の感を起さしむ、至りて友情に深きものに非らずんバ焉ぞ能く此に至るを得ん、然れども倩々(つらつら)両人の友情を考ふるに、平八郎山陽を推すや、山陽が己れの学術を認識したりと想像せしに在り、故に「我を知るものハ即ち我心学を知るものなり」と云ひ、又「抑々其亦陽明子の文章と其功業とに心服せしを明にするなり」と云へり、然らバ山陽果して陽明に心服したるか、彼れ王文成公の全集を読むや、為儒為仏姑休論、吾喜文章多古声の句あり、山陽ハ道学的眼光を以て之を読まずして、文章的眼光を以て之を読めり、彼が陽明に対する態度以て見る可し、然るに尚ほ且つ平八郎山陽に惓々たる所以のものハ何ぞや、是孔子の所謂中行を得ずして狂狷に与みするの意にして、山陽の気節稍俗輩に異なる所、端なく平八郎の意に投じたるにあらざる歟、

近藤某なるもの初めて平八郎に面会するや、平八郎偶々当時有用の人物を品評す、座に一士人あり、頼子成 を問ふ、平八郎曰く、士卒三十人を指揮するに於て何かあらん、篠崎承弼を問ふ、平八郎曰く彼緩急の際に莅(のぞ)みて其躬すら猶且つ措く所を失ふ、何の暇ありてか人を指麾(しき)するを為さんと、然らバ平八郎山陽に対する推重の度亦知る可し、夫れ落々たる世間、終に一人の肝膈を吐露して以て学術道徳を談ずるものなく、空谷寂寞、僅に人に似たる者を得て、之と談ずるを喜びし彼の境遇を考ふれバ、其山陽を哭する所以ハ即ち自己を哭する所以なり、其文章の一字一涙、悽愴として無限の感慨を寄せし所以のもの何ぞ深く怪しむに足らんや、


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