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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その21
猪俣為治
『朝日新聞』1898.10.11 所収
朝日新聞 明治三十一年十月十一日
大塩平八郎 (廿五) 猪俣生
其五 洗心洞(続)
平八郎の教授法たる、近世的の思想を以て之を観れバ、或ハ其厳酷に失せざるかを疑ふものあらん、然れ共【白/七】隷輿抬の中より常勝軍の名を博したる鉄騎隊を出したるハ、一にクロンウエルの鍛練に由れり、平八郎亦精金美玉的の人を得んと欲せバ、必らず烈火中に於て之を鍛へざる可からざるを知れり、其塾規の峻厳過酷なること亦宜ならずや、吾人ハ今彼が門生に対して如何に感化力を有せしかを示すべし、左に記する所ハ藤田東湖が、同姓頼母及び又右衛門に送れる書翰中の一節にして、天保八年の乱後、当時有名の剣客斎藤弥九郎が、
平八郎を捜索せんとて大阪に至り、騒乱の際平八郎の軍を敗りたる本多為介より知聞せし事実を写せしものなり、
此度の一件、頭取ハ平八郎に候処、同人儀ハ中
中非凡人にて、謀叛一揆等企候ものとハゆめゆめ不心付候、今度人相書に出候、大井正一郎と申者ハ拙者同役伝次兵衛倅に候処、剛気不敵の少年にて、親類ハ勿論、父の教誡をも不相用、悪事と云ふ悪事のみ振舞候大あばれものにて手に余り候処、拙者槍術の門人に付、異見加へ
くれ候様伝次兵衛より被頼候間、一夕正太郎を
召寄せ、異見致候得者、其夜に至り拙者宅の門塀等、屋上の瓦夥しく打くだき候様なる者にて、最早勘当致し候外無之との評議に至り候処拙者心付候ハ、平八郎ハ格別の人物にて、師弟の作法厳重に有之、且恩愛も深く既に養子格之助との交り、実父子よりも親しく別段なる事に相聞え、尤も拙者ハ朱子に、平八郎ハ陽明学にて、学風ハ違ひ候得共、才徳中々平八郎にハ遠く及び不申候へバ、右正一郎ハ一ト先平八郎へ託し、教誡為致候はゞ可然と申し候へバ、父並に親類一同大に喜び、無此上心付と心聞候得バ、平八郎挨拶に不肖の身、何共安心不致候へ共、右様豪気の者ハ仕込甲斐も可有之候間、何分引受可申との事に付、入学為致候処、其正一郎丸で以前と引かはり、天晴の人物に相成り候に付、人々も誠に不思議なる事に存じ、益々平八郎に感服致候処、此度平八郎乱を起し候
悪少年に対し「豪気の者ハ仕込甲斐も可有之」との一語、既に平八郎が教授作用の人に異なる所あるを見るべきなり、
斯くて洗心洞ハ、殆んど二十年間、一種異様の光彩を放ちて、難波の市中に屹立し、天下復た関西に洗心洞あるを知らざるハなかりしに、誰れかしらん天保八年二月十九日払暁より、三昼夜の間に街巷百十八町、戸数一万五千を一炬に附したる大火災ハ、其火源を此洗心洞裏より発せんとハ、平八郎曾て弟子に示せる語に曰く、「読書講道者、黙以識之、謙以居之而当忠孝之変殺身成仁、是其所止也」と、嗚呼斯く教へたる師も終に自ら身を殺せり、斯く教へられたる弟子も亦た皆身を殺せり、然らバ洗心洞の師弟ハ共に斯道に殉死したる者歟、
聞く明末に於て、毘陵の霞舟先生の、節に東海に自焚するの前二十五年、其門人江陰の李忠毅公、逆閹を弾劾し、毒刑を蒙ぶりて死せり、彼れ其逮はれて京都に送らるゝや、道に霞舟先生の家を過る、先生其二子に命じ、書を読むことを輟(や)めて左右に侍せしむ、李公曰く、今後吾児をして復た書を読ましむること勿れ、先生之に答へて曰く、書何ぞ読む可からざるを必とせん、特に子の真読書を学ばざらしめむ可きのみ、李公笑いひて曰く、亦須らく真先生に従ひ遊ばしむることなかる可きなりと、魏庭勺之を論じて曰く、「天下治乱、風俗之淳漓、忠孝廉恥之存亡、莫不由于教化、故師道為甚重、后世師失其道、而俗亦簡賤之、其為聖賢仁義道徳之言、皆文具至、其所身率及塾講而伝習者、皆倡優盗賊之術」と、而して二公が窮達の日患難死生の際に於て、相砥礪する所以を激賞せり、
然らバ洗心洞に学びたる子弟の若きも亦真先生に従ひて真読書を為したるもの歟、
藤田東湖「浪華騒擾記事」
「大塩平八郎関係年表」
猪俣為治「大塩平八郎」目次/その20/その22
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