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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その24

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.15 所収


朝日新聞 明治三十一年十月十五日
大塩平八郎 (廿九) 猪俣生

  其六 平八郎の人物及交友(続)

夫れ人順境に在れバ称賛之に集り、逆境に在れバ誹謗之に帰す、而して称賛の言多くハ溢美に流れ、誹謗の辞ハ寃枉(ゑんわう)に陥り易し、而して平八郎ハ乱前に於てハ称賛者に因て其人物を描かれ、乱後に於てハ誹謗者に因て其性質を吹聴されたり、然れ共如何に毀誉褒貶の其身に集まるも、平八郎平八郎たる真個の独自ハ依然として未だ曾て存在せずんバあらざるなり、故に吾人ハ平八郎の真面目を描くの前先づ彼に附随する伝説の一斑を掲ぐ可し、

伝説に曰く、丹州高槻藩に一旧族あり、家道零落生活甚だ艱(なや)む、因りて大阪に来り、東町奉行高井山城守に就き、祖先伝来の名刀正宗の刀を売らんとす、山城守曰く、正宗ハ天下の宝器にして王侯の佩具たり、卑官余の如きものゝ敢て帯すべきに非らずと、平八郎之を聞き、便ち其刀を購ふ、 山城守之を制すれバ肯ぜずして曰く、某賤小なりと雖も乏を捕盗糾罪の職に承(う)く、名刀を腰にするハ緩急に備へんが為なり、敢て僭越に非ざるなりと、山城守言なくして止めり、又新見伊賀守西町奉行たりしとき、平八郎訴訟の文中に瓢箪と書すべきを、誤りて瓢草町と書せり、伊賀守之を詰(なぢ)れバ曰く、此土地にてハ瓢箪を瓢草と書し来れりと、遂に之を訂正することなかりし、

伝説ハ又云ふ、平八郎甞て九霞の門人霞石に就て画を学ぶ、然るに霞石江戸に出でゝ利慾の事に奔走し、事成らずして再び帰阪し、平八郎に対してハ深く此事を秘せり、平八郎之を察し、大に怒りて以為(おもへ)らく、彼が若きもの此世にあらバ、他日何事を為すも未だ知る可からずと、遂に霞石を殺害せり、又平八郎甞て宮脇志摩に就きて大島流の槍を学べり、後志摩ハ故ありて士籍を削られて神官となるとき、平八郎に槍術の印可を譲らんと云ふ、平八郎之に対へて曰く、汝が如く卑屈にして士籍を削除せられたるものより最早槍を学ぶの要なし と、則ち之を斥け断然大島流を廃して佐分利流を学べり、

伝説ハ又云ふ、一日頼露岡(らかう)平八郎を訪(と)ひ、談適々刀劍の事に及び、平八郎が所持せる粟田口竿子(さんし)貞国の刀を賞美するや、平八郎直に之を露岡に贈れり、又豊田みつぎ逮捕の時、平八郎京都よりの帰途輿(かご)を命ず、然るに舁夫(よふ)ハ大阪人なりしを以て、行間頻りに大阪の与力同心の批評を為せり、平八郎知らざる為(まね)して己の事を問へバ、彼等其長短を説きて復た忌憚する所なし、大阪に達するに及びて、平八郎命じて組屋敷の己の居宅に舁(か)き入れしむ、是に於て舁夫大に驚きて、先言を悔ゆれども及ばず、軈(やが)平八郎彼等を庭に招きて曰く、善くも吾評を申したりと、乃ち各箇に小判金三枚を与ふ、彼等是より舁夫を止め、甘藷を焼きて生を営み、天保の変乱の時尚其職を続ぎ居たり、

以上の事たる、其真、其偽、今日に至りて誰か之を判ずるを得ん、然れども物の影ハ、幾分か実体の形に比例するものなるを知らバ、吾人ハ此信ずべからざる伝説の中に於てハ、尚ほ髣髴の間に平八郎の人物を認識するに難からざるなり、然れども吾人ハ更に一段と進め、当時有名なる人々の批評に就きて平八郎其人が如何に彼等の眼眸に反映したるかを見ざる可からず、


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