Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.2訂正
2000.8.14
玄関へ
大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その25
猪俣為治
『朝日新聞』1898.10.16/17 所収
朝日新聞 明治三十一年十月十六日
大塩平八郎 (三十) 猪俣生
其六 平八郎の人物及交友(続)
平山行蔵、間宮林蔵と共に、文化の三蔵と并称せられたる近藤重蔵が、甞て弓奉行と為りて大阪に在りしとき、平八郎此と交を訂し、来往すること屡々なり、初め近藤重蔵の平八郎を訪ふや、両人共に是れ慷慨悲歌の士、互に時事を談じ、数刻にして帰れり、時に平八郎塾生に謂つて曰く、余近藤の人と為りを観るに、必らず其終を善くせざるものなりと、近藤も亦人に語りて曰く、思ふに平八郎ハ其死然を得ざるべしと、後果して其言の如し、甞て由井正雪の熊沢蕃山に会ふや亦之に類することあり、古語に曰く、猩々猩々を知ると、英雄の眼光両鏡の相照すが如く、其れ欺く可からざるものあるか、或る時近藤重蔵、一個の鼈(すつぽん)を携へて平八郎の宅に至り、之を調理せんことを乞ふ、平八郎其挙措の傲慢なるを憤ほり、忿然其短刀を抜き、鼈を寸断して刀尖に其肉を貫き、之を重蔵の面前に提(ひつさ)げて速に食ふ可しと迫り、重蔵も為に大に困(くるし)めり、又或時重蔵平八郎を訪ふ、平八郎之を玄関に待たしむること多時、因りて重蔵戯に側に飾り置ける鉄砲を取り、薬を装ふて空に向つて一発す、是に於て平八郎直に出でゝ之を堂上に
迎へたりと云ふ、
夫れ粗豪磊落、一世を圧倒するの概ある近藤重蔵
に対し、東峯西嶽、屹として相下らず、動もすれバ輒ち其■■(?)の気を挫かんとしたるを観れバ、平八郎の気魂の盛大なること想見するに余りありと云ふ可し、
天保の当時に於て奉行中の英傑と称せられたる矢部駿河守ハ、平八郎を評して曰く、
平八郎ハ所謂肝癪の甚しき者なり、与力を務むる内、豪商を折(くじ)き小民を救ひ、奸僧を沙汰し、邪教を吟味したる類、天晴の吏と云ふ可し、又学問も有用の学にて、黄吻書生の及ぶ可きにあらず、某奉行在役中、度々燕室へ招き、密事をも相談し、又過失をも問答せしこと浅少ならず、言語容貌決して尋常の人にあらず、(中略)某甞て平八郎を招き共に食を喫せしに、折節金頭と云へる大魚を烹(あぶ)り出せり、時に平八郎憂国の談に及び、忠憤の有様、総髪衝冠とも云ふ可き有様故、余種々慰諭しけれども、平八郎益々憤ほり、金頭の首より尾迄、ワリワリと噛砕きて食ひたり、翌日に至り、家宰某を諌めて曰く、昨日の客ハ狂人なり、努々(ゆめゆめ)高貴の御方に近づく可きにあらず、爾来奥通を差止め玉へと、実に某が為を思ひて言ひけれども、汝が知る所にあらずとて始終交を全うせり、(中略)此一事小なりと雖も平八郎の為人(ひととなり)を知るに足れり、人心の霊愚夫愚婦迄も、今に平八郎様と称するハ、陰に其徳を仰ぐなり、
春日潜庵常に平八郎を称して曰く、
熊沢蕃山、三輪執斎二子の後、独り中斎あるのみ、世人成敗に就て論を立て、称して乱臣賊子
と為す、真に悲しむべし、中斎実に勤王の先鞭
たり、然れども事幕府猶盛なる時に在り、故に人知らざるなり、中斎豈功名富貴を望むものならんや、
頼山陽が平八郎を推重せしハ其若干の詩、之を尽せり、而して彼又常に人に語りて曰く、
中斎と語るや掩はるゝ所あるが如し、為政、講学、一切の事、言はんと欲する所を尽くす能はず、
日野大納言の讌席に於て、狂態万状、王侯の巍然
たるを藐視したる山陽も、平八郎が泰山巖々の気象に圧せられて其胸中を尽くすこと能はざりし歟、
朝日新聞 明治三十一年十月十七日
大塩平八郎 (卅一) 猪俣生
其六 平八郎の人物及交友(続)
確斎間五郎兵衛が、乱後佐藤一斎に変乱の始末を報道せる書翰中の一節に曰く、
先年野中兼山の行状事業を承り申候事有之、猶ほ先哲叢談にても一覧致し申候、是れ大器量の先生にてありし由に候へ共、迫切にハ有之との事に御座候、大塩ハ兼山程の度量ハ決して無之、兼山にハ比し難く候歟に候へ共、其風象ハ粗相似る如きかと被存候、六ケ年以前御遊の節も申上候様相覚候、小拙ハ兼て左様存候に付、急迫よりして酷烈の処有之、人を打果し候歟、人の為に刃せらるゝか、危きものにて、終を善くすれバ善きかと申候事ハ、竊かに信友の者にハ申居候事に有之候へ共、斯様成逆乱を発し候人物とハ、神明ならぬ身の努々心付可申様無之、終にハ其終を善くせざることに御座候、善をせざるのみならず、如此逆反を仕出し、何共可申様無之重罪人に御座候、兼て中々交とてハ出来不申人物に御座候、果して如件事に御座候、
吾人ハ此書中の「斯様成逆乱を発し候人物とハ神明ならぬ身の努々心付可申様無之」の語を見て、未だ甞て三級波高魚化竜、痴人猶斟野塘水の詩句を想起せずんバあらざるなり、宜(うべ)なり、乱後確斎が一斎と共に狼狽したることや、経済問答録の著者床司考禎ハ曰く、
余大阪にて大塩と云ふ者に遇ひ、暫く対話せしに、自身ハ陽明学と云ふ、其言語挙動、甚だ矜慢剛邁にして、宛も狂夫の陣頭に臨むに髣髴たり、
林述斎ハ平八郎を評して曰く、
平八郎ハ、巻■(?)内と塩田又之丞をこね交へたる人物なり、
塩田又之丞ハ曰く、
牧園豬ハ曰く、
夫れ以上の数氏ハ共に一時の人材、其■■(?)所異に、評する所褒貶ありと雖も、亦多少天下に信を取るに足るものなり、又以て平八郎の人物の大略如何なりしかを知るに足る可し、
然れども平八郎の性格風神を披瀝して神采奕々(えきえき)たらしむるものハ左の一事実に若くなきを見る、一書に曰く、
大塩平八郎、一年、藤堂の召に応じ、津の城に至り、酒宴半ばに、公、大塩に陽明学の活用ハ如何なる模様ぞと問給ひしとき、大塩取るかうのいらへをバ申さで後ろに脱しおきたる差ぞへを引寄、スラリと抜放す、一座の諸臣驚く、中にも斎藤拙堂ハ大塩を召されし世話人にてありしかバ、尚更に心を痛めて、こハ何するぞと目を放たず睨み詰むれバ、大塩ハヂリリヂリリと躙り寄りて、切先を公に指向け、此刄先に御手を触れさせ給ふ可きかと申すに、公苦笑し給ひながら、如何で触るゝことの成べきと仰(おほ)すれバ、大塩ハ座を退き、静に刀を鞘に納め、偖て公に向ひて、王学活溌実用有る模様ハ、此刄先の如くに候と答申せしとぞ、
嗚呼是れ何等の狂態ぞ、何等の霊活ぞ、其一言一動、閃電光の如く、撃石火の如く、又天に倚るの長劔を空中に盤【石薄】して触るゝもの尽く喪心失命するが如し、是に至りて平八郎の英霊の気宇、一世を凌轢するに足ると云ふも可なり、
「大塩平八郎関係年表」
猪俣為治「大塩平八郎」目次/その24/その26
大塩の乱関係論文集目次
玄関へ