その4
『朝日新聞』1898.9.20 所収
朝日新聞 明治三十一年九月廿日
大塩平八郎 (五) 猪俣生
甞て淹滞せる一訴訟あり、数年に亘りて決せず、山城守平八郎に命じて之を【言献】(けん)ぜしむ、原告平八郎の審判の任に当りたるを聞き、一夜密に菓子一筐を彼に餽りて理を得んことを陳請す、明旦平八郎原被両造を法廷に召して審問す、双方互に論争して相下らず、平八郎之を聴き了り原告の不法なるを知り、反復弁難して其詐譎を責むれバ、原告辞屈して叩頭罪を謝し、積年の難訟一朝にして決す、是に於て平八郎菓子筐を出し、笑て同曹に告げて曰く、諸君子菓子を嗜むを以て、訴者其好む所に投す、是訟獄の久しく決せざる所以なりと、乃ち蓋を開けバ黄白盛積、爛然目を射る、一座皆赧顔汗背、言ふ所を知らざりき、彼が公正廉直にして同僚を憚らざるや此の如し、
又紀藩と岸和田藩との間に境界論あり、東町奉行の当事者、紀藩ハ幕府の親藩たるを以て其意に逆はんことを恐れ、滞訟数年、決する所なし、平八郎復此裁断の任に当り、審査月を過さず、終に紀藩の主張を退けて岸和田藩に理を得せしめたり、其勇断果決にして権貴を忌まざること亦此の如し、或る時平八郎京都に赴き、帰途伏見の夜舟に搭ず、然るに舟淀川を下りて路程の半に達する比ほひ、一士人あり、手に提灯を携へ一僕を従へ、突然岸頭に顕はれ、船頭を呼て船を岸に着けしむ、此時平八郎励声船頭を叱し、夜中定期に非ざる地に於て乗船を求む彼の理なきや甚し、且我等急用ありて一刻を争ふもの、唯速に舟を行れと迫る、船頭已むを得ず士人を乗せずして去る、翌暁船将に大阪八軒家に達せんとする時、平八郎遽(にはか)に起ちて、高声同船の人々に問ふて曰く、諸君物を失ひたることなきかと、是に於て人々起ちて身辺を捜索すれバ、或ハ財嚢を失ひたるものあり、或ハ烟草入を失ふたるものあり、平八郎之を聞き笑ひて曰く果して吾の図る所の如しと、乃ち急に船客を点検して一人の偸児(にうじ)を発見し、縛して之を市庁に伴へり、蓋し昨夜岸上に彷徨して船を呼びたる士人ハ此偸児の夥伴にして彼等予め約する所ありて舟を岸頭に着け、竊(ひそか)に贓物を他の一人に移さんと計りたるを早くも平八郎の慧眼に看破せられて此に至りし也、