その36
『朝日新聞』1898.10.29 所収
朝日新聞 明治三十一年十月廿九日
大塩平八郎 (四十二) 猪俣生
元和元年大坂城陥り、天下全く徳川氏の手に帰してより後、僅に一年にして家康ハ薨ぜり、家康果して既に是時に及びて幕府の拠りて以て永久に政権を保持すべき一定の制度を確立したりしや、否、是一疑問なり、
嘉吉応仁の乱より日として干戈を動かさゞることなきもの茲に百五十年、若し極乱の後にハ必らず至治の反動あるべきものならバ、慶長元和の際ハ当に大勢転変の時たらざる可からず、然らバ徳川三百年の治平ハ其原因を家康の経綸に帰するよりも寧ろ変乱に対する反動の勢力に帰すべきものなるや、否、是亦一疑問なり
古より封建制度の頽壊せし所以を察するに、国家の状態支那の如き邦に在りてハ、多くハ藩鎮の勢力強盛にして尾大不掉の弊よりして瓦解を招き、又国家の組織泰西諸国の如き邦に在りてハ、最上層に在る帝王と最下層に在る士庶人の相呼応して中間の強族に抵抗するよりして衰亡を来たす而して徳川氏の封建組織ハ不幸にして支那に似た る所あるよりして、周末に於るが如く強藩跋扈の弊に苦しみ、又泰西諸邦に似たる所あるよりして上下より夾撃せらるゝの運に遭へり、是を以て封建の制を定めんとするもの、善く此に慮る所ありて之が予防の策を講ずべきものなりしか、将た是れ封建の制に固有する欠点にして、智者ありと雖も之を如何ともすること能はざるものなるや、否是亦又一疑問なり、
然れども、仮令徳川氏の興れるハ則ち騒乱より生じたる反動の勢力に乗じたるに由れりとし、徳川氏の亡びたるハ則ち制度に固有せる特弊に由れりとするも、而かも其反動の勢を利用し若くハ制度の弊を馴致し以て一興一亡の運を致せる所以のものハ、抑々亦当事者の善悪能否に因らざらんや、是を以て其興るや勤倹を以てし、其亡ぶるや遊隋を以てし、其民心を収むるや仁恵に因り、其輿望を失ふや悪政に因れり、故に文化の末天保の初に及んでハ、徳川の政治既に其弊に堪へざるものありて、其衰亡の端ハ必らずしも嘉永以後の外患を待ちて後之を知らざるなり、何を以て之を知る曰く丁酉の変に徴して之を知るなり、