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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その37

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.30/31 所収

朝日新聞 明治三十一年十月三十日
大塩平八郎 (四十三) 猪俣生

  其八 徳川の弊政と天保の飢饉(続)

夫れ徳川氏の初世たる三代の治ハ、実に三百年間の良政の絶頂にして、家康之を創め、秀忠之を守り、家光に至りて更に之を拡張す、加ふるに酒井、土井、井伊、松平、阿部等の名臣宿将、尚ほ世に存し、心を一にし力を勠(あは)せて補弼賛画の任に当りしを以て、封建の政治としてハ実に些の遺憾あるを見ず、然るに四代将軍家継に至りて其器凡庸復た乃父(だいふ)の勇略あるなく、遂に権勢の下移を致して酒井忠清ハ下馬将軍の渾名を博するに至れり、其殉死を禁じ、寺院の新築を止め、大奥の制法を定め、玉川の上水を設けて市民に便し、大仏の像を鎔かして貨価を平準にする等、二代三代両将軍の未だ為すに及ばざりしもの、此時に及びて之を見るを得たりしと雖も、要するに勤倹の風の弛廃せる端を顕はし来りたるハ実に此公の時なりとす、五代将軍綱吉の職に就くや、堀田正俊事を用ひ元禄の初世頗る見る可ものあり、不幸にして正俊不慮の変に死したるを以て、牧野、喜多見等の輩相踵で進み、主意に逢合して奢侈淫逸の風を促し、殊に柳沢吉保に至りてハ御側用人より進みて遂に政治の大権を握り、大小の事自から之に任じて、将軍ハ唯酒色に耽るのみ、是を以て国庫空乏し、財用給(た)らず、遂に通貨を改鋳し、大銭を作り、新税を課し、以て其急を済はざる可からざるに至れり、而して其生類憐恤の令の若きハ、最も苛酷を極め、之が為に刑に触るゝもの八千人の上に出づるに至りてハ、是獣を率ゐて人を食ましむるものたり、然るに当時幸に叛乱を企つるものなかりしハ、是れ宗祖の遺徳深く人心に浹洽(けふかふ)して未だ全く尽きざるものあるに由りしと雖も、又当時の諸侯挙て皆太平の甘味に溺れ鉾を倒にして奮起するの気力を失ひしに由らずんバあらざるなり、且つ人民の生業ハ此間に於て大に発達し、随て華靡の風社会に浸潤し、遂に上下相率ゐて酣歌酔舞の間に太平を謳歌するに余念なかりし、故に吾人ハ元禄時代を以て善政の絶頂と云はずして、太平の絶頂と云はんとす、史家云ふ、徳川之盛極於斯、而其衰亦始於斯云爾、若鑒古者、其漢武帝之儔乎と、其或ハ然らん、六代将軍家宣に至りてハ初め藩邸に在るの日より意を政治に用ひ、前代の弊政を知るや熟せり、故に職に就くの初、群小を退け、堅良を挙げ、悪法を廃し、旧弊を改め、以て奢侈の風を一掃せんとしたるが如きハ、其器亦多とするに足るものあり、惜哉其主とする所ハ外観に走りて、精神を重んぜず、礼法に拘泥して、実務に疎なり、故に剛健の風を振起して以て士気の堕廃を一新する能はずして已(や)めり、而して倡優を近け姫妾を愛したるが如きハ、後世の譏を免がれざる所なり、新井白石ハ識者、世以て大体に通ずるものと為す、而かも徒に礼文の末に拘泥して遂に大新刷を為す能はざりしを見れバ、其治務の挙がらざる必らずしも歳月の乏に帰すべからざるものあり、然れ共若し六代将軍をして五代将軍の末を受けて補綴弥縫せしむるに非ずんバ、徳川氏の政或ハ云ふべからざるに至りしならん、又六代将軍をして八代将軍の前に出でゝ改革の端を肇しむるに非らざれバ、吉宗の英邁を以てすと雖も俄に改革の功を見るを得ざりしやも未だ知る可からず、是吾人の此将軍に取る所ある所以なり、七代将軍家綱幼冲にして職に就き、又在職の間僅に四年に過ぎざりしを以て、此間施設の大なるものあるを見ず、唯執政間部詮房月光尼と私せし一事ハ、既に紀綱の弛緩せるを証して余あり、


朝日新聞 明治三十一年十月三十一日
大塩平八郎 (四十四) 猪俣生

  其八 徳川の弊政と天保の飢饉(続)

八代将軍吉宗の治世に至りてハ、吾人ハ雲霧を開きて天日を見るの感なくんバあらず、其在職三十有一年間、勤勉倹素自から持し、武芸を励まし、風俗を匡し、壅蔽を開き、下情を通じ、上ハ皇室を尊崇して大礼を再興し、下ハ諸侯を砕励して黎庶を綏撫(すゐぶ)、武家の典礼を講じ、訟獄の枉屈(わうくつ)を伸べ、田猟に託して行伍を訓練し、射騎を奨励して武健の風を養ふ等、一として意を理世安民の術に注がざるハなし、史家吉宗の治を論じて曰く、徳川初世の政ハ質を以て主とせり、質の弊や民鄙にして野、故に中葉に至りて之を承くるに文を以てせり、文の弊や民奢にして侈、故に将軍之を承くるに倹を以てせりと、其将に枯落せんとする徳川氏の根底に一段の活気を注入して、尚ほ百年を長うせしめたるものハ此将軍の力なりと云はざる可からず、九代将軍家重ハ多病にして朝に臨むこと少なく、政務ハ一に之を其臣下に委せり、而かも吉宗の寄託其宜しきを得て、堀田正亮、松平武允、西尾忠尚等、皆善く前代の遺命を奉じたるを以て、其治世十六年間、甚しく紀綱の頽壊するに至らざりき、

抑々徳川政治の大に乱れたるハ十代将軍家治の時より始まる、家治の職に就きしハ宝暦十二年にして、其初や方正剛直なる松平武允の在るありて姦諛(かんゆ)の徒容易に其私を肆(ほしいまゝ)にすることを得ざりしと雖も、武允の安永の末に卒するや、松平輝尚、松平康福等、皆権臣田沼、水野輩の為に篭蓋せられ、松本赤井の徒之に次いで進み、聚斂■克至らざることなく、賄賂公行し、群小跋扈し、紀綱弛廃し、風俗頽壊し、此に至りて先代の美績良法ハ蕩然地を掃へり、殊に田沼意次が小姓より進みて頻りに累進し、安永六年に及びて宿老たるに至りてハ、吉保以降他に例なき所にして、其諸運上の苛徴、融通金の政策等ハ天下の非歎を来たし、上下の怨嗟殆んど其極に達せり、宜なり天警戒を下して天明の大飢饉ありしとや、十一代将軍の初世ハ即ち松平定信の時代なり、将軍の職に就くや、意次の行ふ所大に民心に背けるを知り、彼を退けて復た事に与からしめず、松平定信を挙げて輔佐の任に当らしめたり、故に天明七年六月より、寛政五年七月に至るまで六年間の歳月ハ、松平定信が前代に於ける田沼の為したる悪政を釐革(りかく)改善して、之を享保の昔に復せんと勉めたる時代也、此間融通法を改め、諸運上を減じ、一切の悪法ハ尽く之を廃棄し、殊に風俗を匡正し、倹素を励し、奢侈を戒め、怠惰を禁ずるに至りてハ、最も其力を用ひし所たり、蓋し天明の末年に及びてハ人民の遊惰其極に達し、淫風蔓延し、廉恥地を掃ひ、挙世また昔時武健の風を存するなし、是に於て定信士風を振起せんと欲し、叱咤呵責、毫も仮す所なく、其干渉検束の甚しき安逸放縦の人をして「田沼の水の濁り恋しき」との怨声を発せしむるに至れり、山陽定信の治を評して 毎一令発、人之望之、如出暗夜而覩日月也、其聴之也、如将漬之卒、得良将而聞其呵喝也其或畏忌而謗也之也、如狡奴點僕之不便家宰之聡察也 と云ひしハ真なり、而して定信ハ寛政五年を以て其職を免ぜられ、平八郎ハ此の年を以て生れたり


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