Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.11

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その38

猪俣為治

『朝日新聞』1898.11.1 所収


朝日新聞 明治三十一年十一月一日
大塩平八郎 (四十五) 猪俣生

  其八 徳川の弊政と天保の飢饉(続)

寛政五年より文化十四年に至る十五年の間ハ、則ち松平信明定信に代りて執政となりたる時代なり、信明亦大体に通ずるもの、故に定信の遺意に率由して画一の政を行ひ、綱紀を保持して容易に弛廃するに至らしめざりき、然れども信明の人と為り果決独断の力に乏し、故に定信の如く仮令角を矯めて牛を殺すの弊を招くことなしと雖も、復た時勢の趨向に逆へて己れの所信を遂行するの気力なかりき、是を以て信明の治世ハ、表面極めて無事太平の観を呈したりと雖も、前代腐敗の気習漸やく此間に復活し、彼が卒後数月ならずして政治の局面俄然として一変し、奥半昌溜詰と為り、水野忠成勝手掛と為り、賄賂請託の端茲に開けて寛政の治尽く破ぶるゝに至れり、殊に忠成に至りてハ其才幹人に超え、之を飾るに巧言令色を以てし、善く人主の意を承順したるを以て、遂に累進して国家の大権を握るに至れり、彼が在職十七年間の弊事に至りてハ、更僕すと雖も枚挙するに暇あらざる程にして、其数十の諸侯に対して、或ハ増封を為し、或ハ特権を与へ、若くハ士大夫に別格を許しゝが如きハ暫く云はず、其二分金を新鋳し、小判、分判、丁銀、小玉銀を改鋳し、又四文銭を増鋳し、南鐐銀の量目を減じ、江戸の各所に冨突場を増加して之を奨励したるが如きに至りてハ、柳沢、田沼の時代と雖も此の如き甚だしきにハ至らざりしなり、而して将軍を本所中之郷なる自己の別邸に招かんが為め、長さ丈余なる数千条の硝子を以て泉川の滝を擬し、数百本の桜樹を掩ふに紙帳を以てし、炭火を以て之を暖めて一夜の中に花を開かしめたりと云ふに至りてハ、其豪華奢侈想見するに余ありと云ふ可し、

平八郎ハ此当時に於て人と為りたるものなり、而して彼の志操彼の学術ハ、彼をして決して袖手せしむべきに非らず、吾人ハ今一証を挙げて、平八郎が如何に当時の時勢に憤慨したるかを示さん、左に記する所ハ藤田東湖の書翰より抜萃せる一節にして、本多為助斎藤弥九郎に語りたる所なり、

嗚呼是平八郎が尚一与力と為りて官に衣食せしときの言なり、亦以て彼の抱負の存する所を知るべ きなり、


藤田東湖「浪華騒擾記事
大塩平八郎関係年表


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