Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.12

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その39

猪俣為治

『朝日新聞』1898.11. 所収


朝日新聞 明治三十一年十一月二日
大塩平八郎 (四十六) 猪俣生

  其八 徳川の弊政と天保の飢饉(続)

夫れ天保の初年に至る迄の徳川の治乱ハ、之を説明すること決して難きに非らず、外部の勢力其盛衰を激したるに非らず、内部の新事情其変化を促がしたるに非らず、唯原動反動の作用と、物体墜下の理法に拠りしのみ、故に元和寛永の一盛に対してハ茲に元禄の一衰あり、享保の一盛に対してハ茲に安永天明の一衰あり、而して寛政の一盛に対してハ茲に文政天保の一衰あり、是を以て若し元禄を以て寛永に対する反動なりとせバ、享保ハ則ち寛永の復興なりと云はざる可からず、又若し楽翁公を以て吉宗将軍の継紹者なりとせバ、水野忠成ハ実に田沼意次の再生なりとせざる可からず、且つ善政を学ぶもの、噴水の其源流より高く上ること能はざるが如し、故に享保の治ハ寛永の上に出づること能はず、寛政の治ハ享保の上に出づること能はず、又秕政に傾くものハ、物体の墜下して益々其速力を加ふるが如し、故に天明の弊政ハ元禄を越え、天保の弊政ハ天明よりも甚だし、然らバ則ち寛政天保の間ハ、徳川時代中の最も衰頽を極めたる時なるを以て、若し悪政の下に一種の反抗あるべきものなりとせバ、此際ハ実に其時機なりしなり、况んや大飢饉の之に加はるをや、是実に火に投ずるに油を以てするもの、之を如何ぞ夫れ人民激し且つ憤ほらざらんや、

平八郎の予言ハ不幸にして的中し、飢饉ハ早くも天保四年に於て襲ひ来れり、彼の賎臣枉に陥りて六月に霜飛び、孝女寃に鳴きて三年雨降らずとハ古昔の伝唱する所、而して田沼の弊政の絶頂にハ天明の大飢饉ありて、水野の弊政の極点にハ天保の大飢饉ありしを見れバ、天人感■(?)の説必らずしも強ゆべからざるものあるか、

天保二三年の頃より気候和順を欠くこと多く、天災地変屡々起りて登穀を害すること少からず、越て四年の夏に至りて、霖雨数旬に亘り、暑熱甚だ薄くして凉気人を襲ふ、六月の末に至りて諸国川溢れ山崩れ、民家を浸し田圃を壊り、菓物野菜之が為に害を蒙むること甚しく、加ふるに奥羽に大洪水ありて、関東に大風あり、遂に全国の大飢饉と為るに及びぺり、同年八(八年)十月六日に於ける江戸の町觸に曰く、


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猪俣為治「大塩平八郎」目次その38その40

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