Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.13
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その40
猪俣為治
『朝日新聞』1898.11.3 所収
朝日新聞 明治三十一年十一月三日
大塩平八郎 (四十七) 猪俣生
其八 徳川の弊政と天保の飢饉(続)
此年九月に至りてハ米価益々騰貴し、米六合の価百文に昇り、諸民大に窘(くるし)み、此月の廿八日夜、上州幸手宿の窮民蜂起して、富豪を打毀するに至れり、十月に至り幕府ハ江戸の窮民に対し、男にハ五升、女にハ三升の米を恵むこと両度に及べり、十一月に至りて幕府ハ令を下して曰く、
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此節江戸表有米払底にて、諸人及難義候に付、公儀にても色々御世話も有之候得共、追々米価高直に相成候義ハ、武家方にて寄(よせ)囲米等致候向も有之哉に相聞候、武家寺社町方共一同救合候心得にて、家々の飯米仮成に間に合候ハゞ、余分ハ勿論、違作無之国柄ハ不貯置、早々江戸へ廻はし致し、問屋并脇の店米屋共へ売捌候様可致候
幕府ハ之と共に町觸を発し、米穀を蔵匿するを厳禁し、之に反くものハ罪科に処す可しと令し、次で十二月に至りて五ケ年間倹約を為すべきことを令せり、今旧記に拠り天保四年の米価を考ふるに九月十四日の相場ハ一石の価八十六匁三分、十一月一日にハ八十三匁七分、同月八日にハ九十九匁六分、十二月に至りてハ百六匁五分に上れり、而して此四年の凶作に関する損失の一斑を記せバ、十月中各諸侯より御用番大久保加賀守へ届出でたる損失高を見るに松平陸奥守ハ七十五万九千三百五十一石、水戸宰相ハ三十三万五百二十四石、紀伊大納言ハ十九万三千四百三十一石、上杉飛騨守
ハ十三万九千四百六十六石八斗五升、酒井左衛門尉ハ十三万三千三百五十一石、松平伊賀守ハ五万千五百五十六石九斗九升八合、牧野備前守ハ四万二千五十三石、田村右京大夫ハ二万七千六百四十八石に及べり、又十一月に至りて届け出でたる損失高ハ、内藤紀伊守ハ二万四千三百六十一石二斗九升七合、溝口信濃守ハ二万三千六百廿四石五斗六升二合五勺、分部若狭守ハ二万三千百十石に上れり、而して此年南部盛岡に到りしものゝ話なりとして旧記に存するものを見るに曰く、
両三年打続きたる不熟に、本年ハ殊更凶年にて、常年に十俵を収むるものも、今年ハ僅に半俵を得るに過ぎず、故に一家挙りて逃散するものに逢ふこと一日百人に下らず、旅店ハ一宿四百文にて、菜ハ「あんぽんたん」と云ふ塩魚にて、汁にハ山薊の茎葉(くは)を用ふ、城下又ハ山中等、処々に入小屋を掛け、一日一人一合の粥を与ふ、近頃ハ夫も届き兼ね小屋内にて死するもの数多あり、已に二千人程死したる由、大坑を掘置、屍ハ其内へ打込となり、蕨粉を取、「しかず」又ハ米の磨汁なども乞て僅に飢を凌ぐものあり、夜間道へ菰をしきて臥もあり、人家の軒下へ小児を捨て、又ハ飢人の倒れ死するものある故、士家商家共茨を以て軒を塞ぎ置くこと、毎家皆然り、
亦以て此の飢饉の如何に惨状を極めしかを知るに足らん、
越て天保五年正月に至りて米価益々騰貴し、百俵の価百四十五両に至り、諸人困窮すること甚しく、江戸に於て餓死するもの極めて多し、
「大塩平八郎関係年表」
猪俣為治「大塩平八郎」目次/その39/その41
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