Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.14
玄関へ
大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その41
猪俣為治
『朝日新聞』1898.11.5/6 所収
朝日新聞 明治三十一年十一月五日
大塩平八郎 (四十八) 猪俣生
其八 徳川の弊政と天保の飢饉(続)
此月幕府ハ令して曰く、
近頃町々往還に行倒相果候無宿体の者数多有之候に付き、去年不作の国柄多く、其土地に難彳(たゝづみかたく)、
御当地に出可便方無之、無宿に成り行倒居るものなどハ、厚き御仁恵より穢多弾左衛門構内へ小屋相建、介抱手当方之儀、去月中旬より申付置候処、其後も行倒相果候もの間々有之、畢竟町々見廻り方不行屆、中にハ相煩候体見請請ても、町内送り之様其所持場外へ追払候哉にも相聞、既に倒煩ひ居るもの見出候にて、介抱の間合も之無相果候趣の訴に相成、右ハ人命に拘候儀、且ハ火之元等之為にも有之候間、以来町町等閑(なほざり)なく、往還地先、明地、河岸并預り地受請地共其筋之もの、昼夜時々能く相廻り、倒居候もの有之候はゞ、早々介抱手当致し候上、月番の番所へ召連訴出候様可致候、
幕府ハ之と同時に大目付に令し、米穀を匿し不正の利潤を得んとするを禁じ、且つ役吏を派して関東諸国の富有者の宅を検し、其家の人口に応じて今歳新穀収穫期に至るまでの食料を除き、其余ハ尽く之を売払はしむべきことを命じたり、三月に至りて米穀高直の為に更に令する所あり、六月九日千住宿の窮民一揆を企てゝ米屋を打毀したるを以て、同月十一日貧民に米を給与せり、
今天保五六両年の米価を考ふるに、五年の五月迄ハ一斗の価百十一匁より百四十四匁の間を高下せしが是より以後次第に騰貴し、六年四月十五日にハ、百七十一匁と為り、七月にハ下りて百卅七匁五分と為り、九月二十四日にハ復た上りて百六十二匁と為れり、此両年ハ必らずしも大凶作に非ずと雖も、前年来の余弊を受けたるを以て、米価ハ下落せざりしなり、
天保七年に至りて、四五月の頃より気候甚だ不順を極め、人々の憂慮少なからざりしが、遂に淫雨数十旬に亘りて、米穀菓菜の収穫を妨げ、日本全国を挙げて飢饉の大旋渦中に陥いるに至れり、当時全国の作割なりとして旧記を見るに曰く、山陽道南海道諸国ハ五分五厘、北陸道ハ五分四厘、西 海道ハ五分、畿内東山東海道ハ四分五厘、羽州ハ四分、関八州ハ三分より四分の間、山陰道ハ三分二厘とあり、以て飢饉の甚だしかりしを知る可し、江戸に於てハ連年米価高直にして、諸民困窮するもの極めて多かりしに、今や全国の大飢饉と為りたるを以て、米価益々騰貴し、殊に七月十八日、及び八月一日の暴風雨ハ、関東諸国を荒らし、其家屋田野を崩壊して人畜を死傷せしめたる惨状ハ筆紙に記し尽す可からざる者あり、故に米価愈々上騰し、蔵米百俵の価百四十五両に及び、一両を以て二斗二升を得、百文を以て二合八勺を得るに過ざりき、因て幕府ハ一万石の払米を為し、以て諸民の飢餓を救ふたり、十月に至りてハ米価の高直其絶頂に達し、遂に百文を以て漸やく米二合五勺を買ひ得るに過ぎず、是れ実に上古より未だ曽て聞かざる所にして、窮民の苦之より甚しきハなきなり、是を以て十月一日より同廿九日迄、江戸中に於て町奉行へ訴へ出でたる行倒人百五十人、棄子五十六人、欠落百十八人、盗難に遭へるもの百五十七家、湯屋盗難に遭へるもの百六十人の多きに及べり、
朝日新聞 明治三十一年十一月六日
大塩平八郎 (四十九) 猪俣生
其八 徳川の弊政と天保の飢饉(続)
是に於てか幕府ハ、筋違橋外、和泉橋外に救小屋を設けて飢民の流浪し来るものを止て粥を施し、毎一人に付き米三合を給し、別に資本として四百文を与へ、収穫金の内五十文ハ貯金として預り置き、小屋を去るの際交付するの法とせり、然るに此小屋に来るもの初めハ僅に六百人許に過ぎざりしが、次第に増加して後にハ一万人の多きに達するに至れり、又町奉行所に於てハ、八万両の米穀を買入れ、之を市価よりも価を下げて払下げ、其他有らん限りの方法を尽して飢民を救ひたるを以て、市民の之が為めに餓死を免がれしもの非常に多かりき、越えて天保八年に至りてハ飢餓の惨状益々甚しきを以て、更に板橋、千住、新宿、品川の四ケ所に救小屋を設けて以て諸国より訪ひ来る所の飢民を救へり、
江戸の光景ハ此の如し、諸国の光景ハ如何、仙台なる大槻翁 *1 の書簡の大意に曰く、
夏より雨暘愈々順を失ひ、六七月に至れ共陰雲四合、日光を見ること稀に、風気陰冷、人々皆冬衣を着し、扇を手にする日なし、六月廿一二日の頃にハ所々白毛を降らす、長短斉しからざれ共、長さハ二尺に余るもあり、馬毛に類せり、斯かる変異のことなどありし故、世人愈々危ぶみ、如何なる天災のあらんと案ぜしに、果して天下一般の大飢饉となりて、五穀実らず、菜蔬菓物の類にてハ、草根木芽ハ云ふに及ばず、鶏犬猫牛馬の類迄食尽し、世に紛れ出で麦苗の一葉を生ぜしを抜き取るもあり、桃生牡鹿の両郡ハ、餓死せしもの幾千人に及ぶ可く、秋の末迄ハ餓(ひもじ)と呼はりて泣叫ぶ声を聞しが、後にハ其声も絶たり、路傍に斃れし餓(がへう)ハ犬など噛散らし血肉狼藉、実に目もあてられずとなり、米価ハ仙台にて蔵米四斗二三升入一俵を金三両に代へ白米ハ四升を一分に、大豆ハ九升を一分に代へたり、其余の物価之に凖ず、此程六七才より十四才迄児童、芭蕉の辻辺にさまよひ、夜に入れバ寒しと泣き、餓と叫ぶ声、実に聞くに忍びず、是其父母他領に出て、来るとき棄去りしものゝ由、深更に其哭声の悲しさ何に喩ふべき様もなし、老人病者などハ皆川に身を投じて死せりと見ゆ、古人の老幼ハ溝壑に転ずとハ此事なるべし、加美郡より江刺郡へ赴く途中にて、父母ハ已に死し、妻も死し、十二三の女子と両人にて有壁迄往くに、女子も亦死せしに、自ら鉈を以て枯木を切り、女子の肉を炙りて啖ひ、後より飢民の来るありて両人して当月(七年十二月)三日より六日迄に過半食尽し、両人共斃死し、女の首ハ未だ枝に貫き置ける由、親しく見しものゝ談(はなし)なり、古史に子を易へて食ふと云ふことあり、誠しからぬことゝ思ひしに、只今右の如くなることあり、是にて国元大飢饉の有様察せらるべし、
又明治十七年四月十四日の官報の掲載する所に拠れバ、関口元老院議官が巡察使として東北地方を巡回し、天保年度の飢饉の惨状を取調べたる時、古老ハ語りて曰く、
天明五六両年の飢饉ハ夏より秋迄にて久しからず、其年十月に至りてハ新米も出来、且つ隠米も出しかバ、早く百文に五六合になりたり、又諸物も今度の如く高直ならざりしかバ、猶ほ凌ぎ易かり、此度ハ巳年(天保四年)より申(天保七年)に至りて不作又四ケ年なり、其間午未の間ハ半作にて、さばかりにハあらざれ共、丙申にハ其年秋より明年の秋迄期年の飢なれバ、尤も久しきこと也、窮民の凌ぎ兼ぬるも尤也、己れ七十一に至るもかゝることハ覚えず、云々
以て其飢饉の一斑を知るに足る可し、是に於てか騒乱一揆ハ到る所に紛起せしが、其中の最も大なるものハ甲斐国に起りし騒動なり、
管理人註
*1 大槻磐渓か。
白柳秀湖『維新革命前夜物語 下』 (庫9)三樹書房 1985)p159 に、「小宮山綏介の保存していた大槻磐渓の手簡によると・・・」と飢饉の惨状を紹介している。
「大塩平八郎関係年表」
猪俣為治「大塩平八郎」目次/その40/その42
大塩の乱関係論文集目次
玄関へ