その42
『朝日新聞』1898.11.7 所収
朝日新聞 明治三十一年十一月七日
大塩平八郎 (五十) 猪俣生
此飢饉に際し江戸及び各地の慈善家の施与を為せるもの亦其数甚だ少なからず、就中上総に於る高梨両家の所為ハ、実に人をして感泣せしめたり、高梨助左衛門ハ上総の茂田村の豪家、醤油を醸造するを以て業と為すものなり、彼常に倹約を事とし、家富み財殖ゑ、土蔵六十五戸を有し、醤油数万石を造り、之に与かる杜氏百二十人に及べり、
彼此歳凶作にして流亡の民諸所より来を見るや、救小屋を設けて之を養ひ、一日三回の粥を与ふるを例とせり、此に於て遠近の窮民之を聞きて来り集り、時としてハ六七千人に及びしことあり、又彼ハ病者の為に医師三人を傭置き、死亡するものあれバ僧を請じて之を己が所有地内に葬りしに、其数のみを以てするも三千人の上に達せり、斯の如くして天保七年の十月より翌八年の九月に至るまで施与したるを以て、之が為に生命を全うするもの六七万人に及べり、助左衛門の孫某、祖父の金を施与して毫も惜む所なきを見て之を憂ひ、一日祖父に謂て曰く、斯る大凶作に際して貧民を救助するハ、事極て美なりと雖も、貨財に限ありて、貧民に限なし、児深く家道の傾頽せんことを恐ると、助左衛門之を諭して曰く、我財尽くれバ則ち已む可し、財にして尽くることあるも、我田宅にして存すれバ、汝等復た衣食に窮することなかるべしと、貧民に施与すること初の如くなりしと云ふ、
又高梨権兵衛と云へるハ、上総野田村の醤油屋にして、当時江戸に於て使用する所の醤油ハ過半其製造に係れり、其富推して知る可し、権兵衛亦飢民を憫れみて小屋を作り、百姓ハ小屋の床上に置き、乞丐(こつじき)ハ床下に坐せしめ、日々粥を与へて之を養ひ、又編板に送られて来る患者あれバ、何人を問わず之を小屋に留め、医師をして之を治療せしめ、若死するものハ、之を其宅地に埋葬せり、斯の如くして彼が飢民に施与したる所の金ハ一万円に及べり、此権兵衛の祖先ハ往年の凶作にも多くの人を救ひたるを以て、官より帯刀を許され且つ七口俸を賜はりたりと云ふ、
嗚呼全国の飢饉ハ此の如く、奸黠なる富豪の動作ハ此の如く、慈善家の窮民を救ひし光景ハ亦此の如し、知らず飢饉の予言者平八郎の所在地たる大阪市の有様ハ如何、