Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.17

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その43

猪俣為治

『朝日新聞』1898.11.8 所収


朝日新聞 明治三十一年十一月八日
大塩平八郎 (五十) 猪俣生

  其九 大阪

大阪市の天下の大都たるに至りしハ、其由来決して遠きに非らず、抑々現今大阪城の存する所ハ、固と之を石山城と称し、本願寺光佐之に拠りて織田信長に抗し、兵結びて解けざる数年なりしが、後勅命に因りて和解し、此城遂に信長の手に帰せり、天正十一年、豊臣秀吉其跡に拠り、更に大に土工を起して経営すること二年、天正十三年に至りて竣功す、今の大阪城即ち是なり、此地、当時市民の数未だ多からざりしを以て、秀吉山城国伏見、和泉国堺等の市街より許多の商賈を移住せしめて、専ら市街の発達を計れり、而して此地たる、日本国の中心に位し、良好の港湾を控へ、幾多の河川を有し、貨物集散の地に恰当せるを以て、僅僅の歳月間に非常の発達を為し、当時日本国の政治上の中点たりしのみならず、又商業上の中点と為り、元和元年大阪城の陥落せる頃に至りてハ、既に居然たる大都会の姿勢を有し、天下の商権を一手に握るに至れり、

元和元年五月、大阪城陥るや、徳川家康松平下総守忠明を此に封ぜり、而して同六年七月を以て忠明の郡山に移さるゝや、爾来大阪ハ所謂番城と為り、之を守備するものを称して城代と云ひ、京橋玉造の二ケ所に城番を置きて以て城代に副し、別に東西に町奉行を置けり、而して城代に任ずべきものハ位階従四位、石高十一万石以下の幕府譜代の大名を以て之に宛て、其格秩ハ京都所司代に次ぎ、江戸城に於ける席次ハ溜の間にして、在役中ハ役料一万石を賜はり、与力十騎、同心五十人之に附属せり、又城番ハ二三万石の大名二名を以て之に宛て、江戸城に於ける席次ハ雁の間にして、役料三千俵を賜はり、与力三十騎、同心百人之に附属せり、而して東西の町奉行たるものハ位階ハ従五位諸太夫なる旗下の士より擢き、江戸城に於ける席次ハ芙蓉の間にして、知行千五百石、役料ハ現米六百石を賜はり、与力三十騎同心五十人之に附属せり、而して大阪の市政に与かるものハ、即ち城代と東西町奉行にして、城代と町奉行ハ、其位次甚だ懸隔せりと雖も、而かも実際に於てハ権力に大差違あるなく、幕府に奉る上申書にハ、城代奉行立会の上署名捺印するを例とせり、是れ彼等ハ共に直接に将軍の墨付を頂戴するが為なりと云ふ、此の如く大阪町奉行ハ、江戸に於けると異にして、其責任重きと共に、権力亦広大なり、矢部駿河守大阪市町奉行に就て語りて曰く、

以て其権力の存するを見る可し、

大阪城の番城となるや、初めて城代に任ぜられたるものハ、内藤紀伊守信正にして、又奉行ハ久貝因幡守東町奉行と為り、島田越前守西町奉行と為り、三人共に力を大阪市の発達に用ひ、或ひハ開墾を企て、或ハ疎通を試みて其地の利便富饒を計り、爾来此地に来る所の城代奉行等も、皆共に心を茲に注ぎたるを以て、益々大阪ハ繁栄天下に比なきの都府と為れり、


今井貫一「大阪城の衛戌勤番制度
大塩平八郎関係年表


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