その43
『朝日新聞』1898.11.8 所収
朝日新聞 明治三十一年十一月八日
大塩平八郎 (五十) 猪俣生
元和元年五月、大阪城陥るや、徳川家康ハ松平下総守忠明を此に封ぜり、而して同六年七月を以て忠明の郡山に移さるゝや、爾来大阪ハ所謂番城と為り、之を守備するものを称して城代と云ひ、京橋玉造の二ケ所に城番を置きて以て城代に副し、別に東西に町奉行を置けり、而して城代に任ずべきものハ位階従四位、石高十一万石以下の幕府譜代の大名を以て之に宛て、其格秩ハ京都所司代に次ぎ、江戸城に於ける席次ハ溜の間にして、在役中ハ役料一万石を賜はり、与力十騎、同心五十人之に附属せり、又城番ハ二三万石の大名二名を以て之に宛て、江戸城に於ける席次ハ雁の間にして、役料三千俵を賜はり、与力三十騎、同心百人之に附属せり、而して東西の町奉行たるものハ位階ハ従五位諸太夫なる旗下の士より擢き、江戸城に於ける席次ハ芙蓉の間にして、知行千五百石、役料ハ現米六百石を賜はり、与力三十騎同心五十人之に附属せり、而して大阪の市政に与かるものハ、即ち城代と東西町奉行にして、城代と町奉行ハ、其位次甚だ懸隔せりと雖も、而かも実際に於てハ権力に大差違あるなく、幕府に奉る上申書にハ、城代奉行立会の上署名捺印するを例とせり、是れ彼等ハ共に直接に将軍の墨付を頂戴するが為なりと云ふ、此の如く大阪町奉行ハ、江戸に於けると異にして、其責任重きと共に、権力亦広大なり、矢部駿河守大阪市町奉行に就て語りて曰く、
大阪城の番城となるや、初めて城代に任ぜられたるものハ、内藤紀伊守信正にして、又奉行ハ久貝因幡守東町奉行と為り、島田越前守西町奉行と為り、三人共に力を大阪市の発達に用ひ、或ひハ開墾を企て、或ハ疎通を試みて其地の利便富饒を計り、爾来此地に来る所の城代奉行等も、皆共に心を茲に注ぎたるを以て、益々大阪ハ繁栄天下に比なきの都府と為れり、