Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.18

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その44

猪俣為治

『朝日新聞』1898.11.9 所収


朝日新聞 明治三十一年十一月九日
大塩平八郎 (五一) 猪俣生

  其九 大阪(続)

大阪ハ此の如き政治組織の下に於て、進歩の途程に上りしが、此間策士及び事業家輩出して、其繁盛を助けたるもの少なからず、見よ安井道頓 *1 の企画せる開鑿工事ハ、設計其宜しきを得て遂に道頓堀の遺名を得、淀屋辰五郎の発起に懸る堂島米相場ハ、天下の米価を平凖にする程の盛大を極め、酒造業より両替屋と為りたる鴻池善左衛門ハ、茲に銀行事業の一部たる為替制度を創(はじ)め、河村瑞軒安治の淀河疎通の大工事ハ、益々運輸の便を助け て安治川の名を残し、名古屋山三出雲お国の歌舞伎踊ハ、演劇の濫觴と為り、竹田の「からくり」茲に出で、虎屋の饅頭茲に売られ、而して木村亦次郎の計画に成りたる九軒町(新町)ハ、其規模壮大に結構美麗を極めて、天下の蕩子の遨遊を促し、遂に大阪ハ日本国に於ける富有の中心、繁華の中心、奢侈の中心として各地方の貨物を吸集するに至り、天下の財を得んとするものハ、必ず茲に於てし、財を散ぜんとするものも亦必ず茲に於てするに至れり、試に延宝年間の大阪年中行事を繙き見よ、其道頓堀の初芝居の光景ハ如何、

と云ふにあらずや、又天王寺の彼岸詣での光景ハ如何、 と云ふに非ずや、而して三月朔日の瓢箪町夜見世の如何に盛なりしかハ、阿波座、瓢箪、越後の三ケ町にて、太夫天神等遊女の数凡て二千三百人ありしと云ふを以て其繁昌を見る可く、「長崎の寝道具にて、京の女郎に、江戸の張をもたせ、大阪の九軒町にて遊びたや」との諺を生ぜしむるに至りしを見て、其華麗なるを想像すべし、当時の大阪が華美淫逸に流れ、宛然ピリグリム、プログレス中の「虚栄市」たりし光景ハ、西鶴一代の著作之を尽せり、吾人ハ今茲に絮説(じよせつ)することなかるべし、

此の如く大阪ハ、往来交通の便と運輸貿易の利を占め、天下の諸侯ハ茲に蔵屋敷を置くに至りしを以て、亦益々繁栄を助長するに至れり、今旧記を案ずるに、享保の頃に於てハ、江戸西丸の米廩(べいりん)として此に在るもの廿九棟、六十四戸前にして、其米穀二十万石におよび、加ふるに諸侯の蔵屋敷ハ、百十一ケ所に達せり、而して此諸侯ハ多く関西及び北陸の大藩にして、其米石高を算すれバ千二百五十万石の上に出でたり、試に当時全国の石高を三千万石とすれバ、其三分の一以上の米ハ皆此大坂の蔵屋敷に存在せり、以て其如何に貨物の中心たりしかを知るに足る可し、而して此千三百万石の米穀之が動力と為りて、諸侯の家老用人此に来往し、商賈投機師此に集り、相場茲に行はれ、為替此に盛に、貿易運輸茲に繁昌せり、


管理人註
*1 道頓堀の名は「成安道頓」に由来するというのが、現在の定説です。
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