その45
『朝日新聞』1898.11.10 所収
朝日新聞 明治三十一年十一月十日
大塩平八郎 (五十二) 猪俣生
幕府既に此の如く大阪の商人に因りて政治機関を運転し、諸侯も亦彼等に因りて用途を弁ぜしを以て、大阪豪商の権力、他の農工の上に振ひ、士太夫諸侯も、亦大阪の豪家に対してハ、一種の奴隷と為りて、只管彼等の歓心を買ふに汲々たり、是れ恰かも亡国の遺民ロスチヤイドルが、高利貸の権力を欧州各国政府の上に振ひ、露国の強を以てすと雖も猶ほ之を憚かりて、一意之を慰撫するに勉むるが如し、此の如き状態なるを以て、土木工事に請負、買上、払下等より、御蔵預等に至るまで、大阪の豪商ハ尽く其手を及ぼして莫大の利を占め、遂にハ諸侯に対して家老の権力を有するものあるに至れり、
是を以て大阪の豪商ハ年々奢侈に耽り、遊惰に流れ、其豪華往々にして王侯を凌駕するの勢あり、彼の淀屋古安 *1 の第四男たる三郎右衛門ハ、放肆無頼の故を以て寛永六年に家財を没収せられたるが彼の居宅ハ四方百間にして、大書院小書院ありて、皆金襖を以て之を飾り、有名の画工勝田仲信に画を描かしめ、殊に其所謂「夏の間」と名づくるものハ、天井及び四方を囲むに硝子を以てし、其内に清水を湛へて金魚を泳がしめたり、而して彼ハ婢妾三十四人を此大屋に蓄へ枕席に侍せしめしと云ふ、以て其豪華を知るに足る可く又元文五年三月に於て、刑に触れたる辰巳屋吉兵衛ハ、六百万両の財産ありしとハ当時に伝唱せられたる所にして殊に元文三年に於て或る一士人が竹田の豆人形の「からくり」の直(あたへ)百両なるものを遊女に与へたりと云ふに拠れバ、当時の大阪の繁昌の度また察するに余りあるべし、
大阪ハ、此の如く繁華と奢侈を増加し来りたりと雖、文教に至りてハ毫も進歩することなく、所謂無智の天堂、愚者の極楽に過ぎずして、物質的風気ハ一般に流行し、人々唯眼前の楽、口腹の慾のみを事として、復廉耻の談、礼儀の話を口にするものなかりき、故に明和三年の調査に拠れバ、大阪三郷の人口実に四十万四千九百三十人の多きに達せしも、其中傾城七百七十三人、禿四百二十五人にして、学を講じ道を教ふるの儒者ハ僅に八人に過ぎざりし、嗚呼四十万人の人口に対して八人の儒者とハ是れ何たる比例ぞ、以て文教の度如何なりしかを証して余りあり、