Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.19

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その45

猪俣為治

『朝日新聞』1898.11.10 所収


朝日新聞 明治三十一年十一月十日
大塩平八郎 (五十二) 猪俣生

  其九 大阪(続)

元禄以降、天下の諸侯の江戸邸に在るもの、将軍の驕奢に倣(なら)ふて遊惰に耽けりたるを以て、己の秩禄ハ其の費用を充たす能はざるに至り、或ハ自国の富豪に用金を命じ、或ハ江戸の町家より借金を為し、以て一時の急に応ずるものありしも、大抵ハ皆大阪に来りて費用を調達するを常とし、其諸侯の家老若くハ勝手方ハ、唯大阪の豪商を説きて巧に借金するを以て第一の職務と為せり、而して此事独り一般の諸侯に限るに非らずして、幕府も享保以還大阪を以て外府と為し、豪商に対して御用金を命じたること其幾回なりしを知らず、而して其課賦の法たる百万両以下二十万両以上の人員を調べ、其財産を標凖として一戸に五万両若くハ十万両を課賦せり、而して宝暦十一年十二月十六日より、同十二年一月五日迄、三回に分ちて、幕府が大阪の豪商に賦課したる御用金の額を見るに実に百六十九万八千両に達し、之が課賦に与りたる人員ハ都合二百四人なりき、而して大阪に於ける信用手形隆盛の若きハ、一日の振出し高殆んど三万貫目に達し、鴻池外五六軒の両替屋にてハ、大抵一日の額千貫目以上に上れりと云ふ、亦以て大阪の富力の浩大なりしを知る可し、

幕府既に此の如く大阪の商人に因りて政治機関を運転し、諸侯も亦彼等に因りて用途を弁ぜしを以て、大阪豪商の権力、他の農工の上に振ひ、士太夫諸侯も、亦大阪の豪家に対してハ、一種の奴隷と為りて、只管彼等の歓心を買ふに汲々たり、是れ恰かも亡国の遺民ロスチヤイドルが、高利貸の権力を欧州各国政府の上に振ひ、露国の強を以てすと雖も猶ほ之を憚かりて、一意之を慰撫するに勉むるが如し、此の如き状態なるを以て、土木工事に請負、買上、払下等より、御蔵預等に至るまで、大阪の豪商ハ尽く其手を及ぼして莫大の利を占め、遂にハ諸侯に対して家老の権力を有するものあるに至れり、

是を以て大阪の豪商ハ年々奢侈に耽り、遊惰に流れ、其豪華往々にして王侯を凌駕するの勢あり、彼の淀屋古安 *1 の第四男たる三郎右衛門ハ、放肆無頼の故を以て寛永六年に家財を没収せられたるが彼の居宅ハ四方百間にして、大書院小書院ありて、皆金襖を以て之を飾り、有名の画工勝田仲信に画を描かしめ、殊に其所謂「夏の間」と名づくるものハ、天井及び四方を囲むに硝子を以てし、其内に清水を湛へて金魚を泳がしめたり、而して彼ハ婢妾三十四人を此大屋に蓄へ枕席に侍せしめしと云ふ、以て其豪華を知るに足る可く又元文五年三月に於て、刑に触れたる辰巳屋吉兵衛ハ、六百万両の財産ありしとハ当時に伝唱せられたる所にして殊に元文三年に於て或る一士人が竹田の豆人形の「からくり」の直(あたへ)百両なるものを遊女に与へたりと云ふに拠れバ、当時の大阪の繁昌の度また察するに余りあるべし、

大阪ハ、此の如く繁華と奢侈を増加し来りたりと雖、文教に至りてハ毫も進歩することなく、所謂無智の天堂、愚者の極楽に過ぎずして、物質的風気ハ一般に流行し、人々唯眼前の楽、口腹の慾のみを事として、復廉耻の談、礼儀の話を口にするものなかりき、故に明和三年の調査に拠れバ、大阪三郷の人口実に四十万四千九百三十人の多きに達せしも、其中傾城七百七十三人、禿四百二十五人にして、学を講じ道を教ふるの儒者ハ僅に八人に過ぎざりし、嗚呼四十万人の人口に対して八人の儒者とハ是れ何たる比例ぞ、以て文教の度如何なりしかを証して余りあり、


管理人註
*1 「淀屋个庵」。淀屋の五代目が宝永2年(1705)に闕所になっている。


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