その47
『朝日新聞』1898.11.13/14 所収
朝日新聞 明治三十一年十一月十三日
大塩平八郎 (五十五) 猪俣生
平八郎ハ天保四年の凶荒以来、人民の窮况を目睹して、深く心を痛め居けるが、此歳ハ其惨状一層甚しく、其貧民困苦の状見るに忍びざるを以て、之れを町奉行に上申して救済の策を講ぜんと欲せり、然れども己ハ退隠の身にして、其事に当るの越爼なるを知り、一日養子格之助を召して之を語りて曰く、今や飢饉益々甚しくして、民其生を聊(やすん)せず、是れ古の所謂老幼ハ溝壑(こうこく)に転じ、壮者ハ散じて四方に往くものなり、汝宜しく此事を奉行に禀告し、大に倉庫を発きて以て此窮民を救ふの計(はかりごと)を為せ、而して是独り奉行の職なるのみならず、亦与力たる汝の当に務むべき所なりと、格之助此事を領し、東町奉行跡部山城守に見(まみ)え曰く、今や天下大に餓ゑ、諸民将に流離の惨に罹らんとす、早く賑恤の方を施すに非ずんバ恐らくハ彼等をして餓死せしむるに至らん、節に願くハ閣下至仁を垂れて、大に倉廩を発し、窮民を救ふの挙あらんことをと、山城守聞き畢(をは)りて曰く、然り、余も亦此事を知れり、故に城代土井大炊守(頭)の旨を請ふて、必らず施恤する所あらん、但其時日の若きハ四五日を要せざる可からず、汝其れ之を待てと、格之助之を聴き、低首して曰く、実に此の如くんバ、民の慶たる甚しと、帰りて之を平八郎に 語る、平八郎も亦大に悦び、共に屈指して其の時日の来るを待てり、既にして七八日を経過すれ共更に賑恤の事なきを以て、平八郎怪訝して措かず、再び格之助をして命を請はしむ、山城守曰く、公務多端にして、未だ城代に稟議するの遑(いとま)あらず、尚数日を待てと、格之助帰りて之を平八郎に報ずるや、平八郎大に怒りて曰く、民の飢餓に切なる、朝にして夕を計る能はず、若し一日を猶予せバ、更に一日の禍害を深ふせん、然るに尚ほ之を急施せず、徒に公務の多端に託して時日を遷延す、知らず今日の公務ハ賑恤より重且大なる者なきを、奉行の職たる固と此の如きかと再び之を待つこと四五日、命遂に下らず、是に於て平八郎、復た格之助を促して之を峻請せしむ、
是れ山城守と平八郎との第一の衝突なり、
平八郎ハ即ち在上有司の甚だ頼むべからざるを知り、別に一策を講じて以て窮民を救助せんと欲し焦心苦慮の後、一日門人にして相組同心たる庄司義左衛門を呼び、之に諮りて曰く、吾れ近日飢饉の状況を観るに、実に袖手すべからざるものあり因りて嚮(さ)きに格之助をして、賑恤の事を奉行所に禀請せしむること三回に及べり、而かも奉行ハ倉廩匱乏(きばう)の虞ありと称して允(ゆる)さず、爾来思を有司の救恤に絶ち、百方苦考して、漸く茲に一策を得たり、乃ち金を市中の豪商輩に借りて、窮民に施与するの料と為さんこと是なり、而して其弁償の方の如きハ、吾輩の世禄を以て年々還算するの約と為さバ、彼等と雖も返還を危ぶみて之を拒むことなかるべし、况んや此事、一身一己の利を目的とするに非ずして、多数人民を救恤するの義挙なるをや、看来れバ滔々たる飢民目に余るあり、之を救ふに一己の力を以てすれバ、恰も一勺の水を以て焔々の大火を防ぐに似たり、然れども己れの心力を尽して後已む可きハ、吾輩民を憂ふる者の当に為すべき所たり、且つや吾輩の此挙あるを聞きて有志者東西に蹶起するものあるも亦未だ知る可からず、嗚呼吾輩生平食ふ所の粟ハ是れ誰に拠りて作られしぞ、吾輩生平着る所の衣服ハ是れ誰に拠りて織られしぞ、今にして此蚩々(ちゝ)の民を救はずんバ、焉んぞ民の先覚たるに在らん、足下亦仁人君子の身を捨てゝ仁を成すの義を思はゞ、幸に救恤金借主の一人に加はらんことを諾せよと、義左衛門欣然として曰く、先生の言真に善し、僕と雖も亦世禄に食むもの、豈に一片民を憂ふるの心なからんや、願はくハ驥尾(きび)に附して心力を尽さん、但施与するの方、之を己等より出づるものと為さずして、全く奉行所の恩施に出づるものと為さバ如何、夫能を妬み功を害するハ古今の通患なり、况んや聞く所に拠れバ、山城守が先生の名望を嫉むこと殊に甚しと云ふをやと、平八郎其言を容るるや、義左衛門尚ほ語を継ぎて曰く、今の時に当りて先生と志を同うするもの、豈に其人に乏しからんや、願はくハ尚ほ組中の諸士に説いて、以て先生の美挙に従はしめんと、是より義左衛門諸士の門を叩きて、頻りに説くに此事を以てし、遂に二十有余人の同意者を得たり、平八郎の喜び而して後知るべきなり、