Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.26
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その48
猪俣為治
『朝日新聞』1898.11.15/26 所収
朝日新聞 明治三十一年十一月十五日
大塩平八郎 (五十七) 猪俣生
其十 大阪奉行と平八郎(続)
平八郎ハ既に同志二十有余人を得たるを以て、一日大阪の富豪中最も勢力ある、鴻池善右衛門を今橋二丁目なる彼が居宅に訪へり、善右衛門之を客室に請じて面接し、待遇甚だ礼あり、平八郎乃ち具(つぶさ)に告ぐるに饑民危急の情状と、己が来意とを以てし、且つ曰く、吾輩嚮(さき)に再三賑恤の事を長官に啓する所ありしと雖も、省せられず、而かも民の饑渇ハ日に迫る、是を以て天満の組与力同心中に於て、同志の士二十余人と協議し世禄を抵当として以て金若干を市中の資財家に借り、之を奉行所
に献じて施与の料に供せんことを決せり、他の資財家三井平野等十有余家を後にして、先づ吾子を訪ひたるものハ、当市の富豪中、吾子其牛耳を執れバなり、願くハ吾輩の志を諒して、此事を承諾せられよと、語々測々、至誠より出で、聴くものをして転(うた)た感動せしむ、善右衛門平八郎の徳望ある聞聴くや久し、今や親しく其人を見、其言を聞くに及べバ、儷乎(げんこ)たる威容の間、亦自ら靄然(あいぜん)たる至情の溢るゝものあり、因りて答へて曰く、天下の疾めるハ則ち吾人の疾めるなり、何ぞ己が安泰なるの故を以て他の窮苦を顧みざるの理あらんや、小人微力なりと雖も、貴託に応ずるに於て幾万の薄資を出すことを辞せざる可し、然れ共一人にして之を専決する時ハ、他の同輩に対して少しく弾(憚)(はゞか)る所なきに非ず、願くハ数日を緩うし、三井平野等の諸子と協議して回答することを得んと、平八郎之を聞きて大に喜悦し、其周旋ハ一に善右衛門の配慮に任ずべきを約し、更に話頭を転じて曰く、聞く吾子の家制ハ熊沢蕃山翁の定むる所にして、今日に至るまで之に違ふことなしと、吾今にして其家道の益々裕なる所以を知るなりと、善右衛門深く其言を謝す、時正に正午に近し、因りて善右衛門ハ命じて午餐を饗せんとす、平八郎曰く、此飢饉の日に於て食を他人に累(わづらは)すハ、甚だ避く可き所なり、是を以て吾に行厨(あんちう)の備あり、只一碗の茶を恵まるれバ則ち足れりと、乃ち腰間より、梅干を添へたる握飯を出して之を喫したり、既にして平八郎ハ不日復相見んことを約して辞し去り、尋いで三井平野等十有余家を過りて、説くに救恤金借入の事を以てしたり、
次日善右衛門ハ天王寺五兵衛、三井八郎右衛門、内田惣兵衛 *1 、米屋平右衛門等二十余人に通報して一所に会し、之に謂ひて曰く、昨日大塩先生来りて市民の饑渇せる者を救恤せんが為に、天満の与力同心二十余人連署して其世禄を抵当として、以て若干金を吾輩に借らんことを乞はれたり、余(わ)れ大塩先生の名を聞くや久し、今其人に接するに、果して聞く所に違はず、愛民の至情殆んど言外に溢るゝものあり、故に余ハ貸すに五千両を以てせんと欲す、冀(こひねがは)くハ諸君も亦彼の請を容れ、応分の金を醵せられ、之を一万両と為して以て救恤の資たらしめよと、衆皆曰く、然り大塩先生の名、都下に高し、先生一人を以てするも、貸与を辞すべからざるものあり、况んや二十有余人の連署あるをや、宜しく適当の分頭法を以て金員を調達すべきなり、
朝日新聞 明治三十一年十一月廿六日
大塩平八郎 (五十八) 猪俣生
其十 大阪奉行と平八郎(続)
米屋平右衛門ハ初めより黙して一語を溌せざりしが、遽(にはか)に膝を進めて曰く、余が見る所ハ諸君と異り、抑々饑民を賑はすハ城代奉行等の責に属す、大塩先生ハ其名高く、其才秀でたりと雖も、畢竟組与力の隠居に過ぎず、然るに今其分を越え、其長を舎(お)き、己れ独り此事を行はんとするハ、是れ或ハ名を売らんとするの挙に非ざるなきを知らんや、縦ひ或ハ然らずとするも、今先生の請に依りて、率爾に金員を貸与せバ、後日奉行の訊詰の際恐らくハ分疏するに途(みち)なからん、若かず此顛末を奉行所に上申し、允許を得るの後、之が貸与を議せんにハ、諸君以て如何と為すと、衆之を聞き、驚き謝して曰く、平右衛門の言なかりせバ、吾輩ハ殆ど後患を免れざらんと、是に於て議頓(とみ)に決し其状を具して之を奉行跡部山城守に啓せり、数日にして山城守数輩を召し、令を伝へて曰く、嚮(さき)に平八郎ハ其養子格之助をして、饑民を賑はさんことを請はしむるもの再三なりき、然れども倉廩匱乏の虞あるを以て之を斥けたり、然るに今又恣まゝに市民に説きて金を借り、以て救恤の料に充てんとするハ、察するに是れ名を売らんと欲するものに外ならず、甚だ悪む可きの所為と謂ふ可し、今後苟くも奉行所の指令を待たずして金員を平八郎に貸与する者ハ必ず処する所あらんと、富豪等之を聞き惶懼(くわうく)措く所を知らず、直に連署して之を平八郎に報じ、金員貸与の事を謝絶せり、平八郎ハ待つこと数日にして、善右衛門等の連名の一書を得たり、以為らく是必らず貸金を承諾せしものならんと、急ぎ封を発(ひら)きて読むこと一過、満面朱の如く、怒気憤然として書を地に擲ちて曰く、有財の餓鬼、吾を売る一に何ぞ此に至れるや、奉行の無礼亦断じて忍ぶ可らず、吾当に一身を捨てて痛く此輩を膺懲(ようちよう)し、以て斯民を飢餓の中より救ひ出さゞる可らざるなりと、
是れ平八郎と山城守との第二の衝突なり、
夫れ農ハ即ち農、吏ハ則ち吏、農の言ふ所畔を出でず、吏の言ふ所庭(てい)を出でざるハ固より其分なり、夫れ今平八郎の位地職分如何を問へバ、唯だ是れ一与力の隠居と云ふに過ぎざるに非ずや、然るに彼ハ官廩を発して飢民を賑恤せんと乞ふこと既に三回に及べり、是豈既に尸祝(しゝゆく)其爼を越えて、庖人の事に当るに類するなからんか、且や之を乞ふこと再三に及びて省せられずんバ彼の職分に於て既に全し、之を奈何ぞ更に策を求めて金を人に借りて以て他を救はんとするや、是れ何ぞ醋を隣家に乞ひて、人の急に応ずるの類に異ならんや、然り、其任に在らざれバ其政を議せざるハ、是れ古昔王政普及の時の事なり、王政普及の時に当りて民妄に其政を議するハ、是れ謂ゆる処士の横議にして、天下の乱階たり、之を罰する固より可なり、
平八郎の、古聖人の道を講ずるもの既に久し、彼れ豈此理を知らざらんや、之を知りて而して事必ず此に出るものハ、豈其故なからんや、天下の治るや道上(かみ)に在り、天下の乱るゝや道下(しも)に在り、今や政治頽壊、紀綱廃弛、有司其職を慢(みだり)にして、万民其所を得ず、是れ平八郎が斎心■(?)天(よてん)、斯道を扶植し、斯民を救済して、以て天下の気運を挽回せんと欲して、万此挙に出ざるを得ざる所以なり、
*1 道修町一丁目の内田屋惣兵衛のことか。
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猪俣為治「大塩平八郎」目次/その47/その49
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