その49
『朝日新聞』1898.11.27 所収
朝日新聞 明治三十一年十一月廿七日
大塩平八郎 (五十九) 猪俣生
平八郎豪商輩の返書を得るや、急に庄司義左衛門を呼び、返書を示し且曰く、君の尽力に因りて同志を得、富豪より金を借らんとせし結果や則ち此の如し、余の不敏なる武弁の身を以て市井の商賈に売らる、是れ啻に二十有余人の同志に辜負(こふ)するのみならず、又面目の以て世人に対すべきものなしと、義左衛門返書を読み了りて愕然、二人相対坐して語なきもの良(やゝ)久し、
平八郎徐(おもむ)ろに口を開きて曰く、君請ふ目下の時勢を一観せよ、実に慨して以て慷(かう)すべきに非ずや、彼れ富豪輩、平素金銀を諸侯に貸して非常の息子を収め、尚且つ扶持米を貪り、家老用人の格を受け、常に絹布の衣服を纏ひ、珍奇の器物を玩び、市人の身を以て侯伯も及ばざる驕奢を極め、家に婢妾を蓄へ、厨に梁肉を積み、日夜宴楽に耽り、甚しきハ則ち諸侯の用人と結託して、物品の上納払下等の時に当りてハ、言語に絶えたる利益を収め、時々(じゝ)担任の有司輩を誘引して狭斜に遊び、千金の大宴を張りて砂礫の如く金銭を浪費せり、然るに今や吾輩が飢民を憂ふるの余に出でゝ、世禄を質として以て金員を借らんと請ふに及べバ忽ち之を奉行所に告げて之を拒絶し、曾て眼前焦眉の窮民を視ること、秦人の越人の肥瘠(ひせき)を視るが如し、嗚呼是れ何等の没道徳ぞ、
而して又奉行及び他の諸有司輩ハ、徳なく識なき斗屑の小人にして、己の責任の何に存するかを解せず、今此窮民の飢餓に迫るを見て、曽て之を救ふ所以を思はず、適々吾輩下情を述べて以て賑恤せんことを請へバ、荏苒(じんぜん)日を送り、再三請ふに及びて則ち曰く、上の費用の多端なるを以て之を恤(あはれ)む能はず、世子襲職の大礼あるを以て之を救ふ能はず、士大夫の扶持米に差支ふるを以て之を施す能はず、今秋の豊凶期し難きを以て之を許す能はずと、嗚呼是れ何等の囈語(げいご)ぞ、知らず将軍ハ何の為に其職に在る、世子ハ何の為に其後を襲ぐ、諸有司ハ何の為に其禄を食む、皆是れ斯国を治め斯民を安ぜん(んぜ)んが為に非ずや、然るに本を棄て末に走り、影を重んじて実を軽んず、嗚呼是れ何等の顛倒ぞ、若し一旦斯民にして亡びなバ、彼等ハ誰に因りて食み、何に因りて生を保たんとするや、思はざるも亦甚し、且つ江戸京都に於てハ既に賑恤の事あるに、独り大阪に於てハ之を行はず、啻(たゞ)に之を行はざるのみならず、適々他人の救済を企つるや、妄に職命を以て之を禁止す、嗚呼是れ何等の専横ぞ、嗚呼彼等ハ果して如何なる地位に在るか、果して如何なる職責を有するか、平時に於てハ則ち権威に憑依して百姓を虐待し、暴政横斂到らざるなく、一旦凶歉(きようけん)の来るに遇へバ、則ち之を棄てゝ顧みざること土芥の如し、咄(とつ)、衣冠の盗、何ぞ其れ憎むべきの甚しきや、
意(おも)ふに彼等富豪の横肆(わうし)なること此の如く、彼等奉行の無状なること此の如くなる所以のものハ他なし、徳川政府其根底に於て既に腐敗し、法令制度の威富豪を制し、有司を御する能はざれバなり、是を以て異国の船舶ハ辺海に出没して覬覦(きゆ)を逞(たくまし)うするも、之れが変に備ふるを知らず、天凶変を下して大に警戒する所あるも、反省して其政を改むる能はず、上、道の揆なく、下、法の守なく、何ぞ其れ能く淑あらん、及(とも)に胥(ひき)ゐて相溺る、嗚呼大丈夫此時に生る、其生平の学ぶ所に負かざらんと欲せバ、為す可きの道唯一あるのみと、説き了りて慨然、天を仰いて浩歎するもの之を久うす、義左衛門之を聴て、粛然膝を進めて曰く、先生の言を察するに、其意弔民の大挙に在るものゝ如し、僕無似(ぶじ)と雖も、亦曾て先生に従ひて士君子国に尽すの道を聞けり、若し駑才(どさい)を棄て玉はずんバ、願くバ鞭鐙に追随せんと、平八郎之を聞き欣然喜び て曰く、嗚呼君も亦身を殺して以て仁を為すの徒かと、是より密談数刻に及べり、