Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.30

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その51

猪俣為治

『朝日新聞』1898.11.30 所収


朝日新聞 明治三十一年十一月三十日
大塩平八郎 (六十一) 猪俣生

  其十一 陰謀(続)

平八郎が丁酉の一挙ハ、山城守に激して此に至りしものと為す可きか、将た山城守を借りて此に至りしものと為す可きか、若し山城守をして平八郎を以て眼上の梁木なりと為し、彼を怒して法に躓かしめ、此れに因りて彼を禍に陥れて以て後日の患を除かんとするの意なりしとせんか、彼も亦巧に計れりと謂ふ可し、試に見よ、平八郎が禀請する所ハ延引して報ぜず、乞ふこと三たびに及びて終に之を斥け、彼が富豪より金を借りて賑恤を為さんとするに及びても、尚ほ奉行の権を弄して以て之を禁止し、彼をして憤懣、激怒、事を起さずんバ已まざらしむ、而して一朝事を起すにおよびてや法を借りて以て之を罰せんとす、是れ実に好個の良策に非ずや、若し又平八郎をして山城守を借て自己が飛躍する所の尺木と為すの意なりしとせんか、彼も亦権略家の風格を具へたるものと謂ふ可し、賑恤の事を以て山城守に迫ること啻(たゞ)に一再のみならず、而して山城守の之を拒むや、又富豪に説きて金を借り以て自ら之を行はんとす、其為す所一として山城守を怒らすに非るハなし、而して山城守の之をも禁止するに至りて、天下に揚言して曰く、吾ハ斯の如き建策を為せり、然れども 山城守ハ之を採用せざりしなり、吾ハ斯の如き賑恤を企てたり、然れども山城守ハ之を禁止して行ふ能はざらしめたり、余の此挙実に万已むを得ざるに出るなりと、斯の如くして平八郎も亦名正しく事順なる所あらんとす、

然れども両者の意ハ皆此に在らざりき、故に一ハ以て獅子を怒らして之が防備を怠るの愚を為して遂に家屋を焼くこと二万軒の多きに及ばしめ、他ハ事軽忽に出で、甚だ用意の足らざる所あるを暴露せり、然らバ則ち丁酉の一挙、共に予め期したる所に非りしなり、 平八郎の事を起すや、彼ハ自ら大将と為り、参謀と為り、兵卒と為り、人夫と為れり、且つ百般の企画経営ハ一に彼れの胸中に存し、彼が為に奔走するものハ皆己れハ何の為に奔走するかを知らざること、猶幾多の石工が、石を削り穴を穿つに当りて、其石の何れの建築に用ひられ、如何なる箇所に配置せらるゝかを知らざるが如くなりき、

天保七年九月の末に至りて、平八郎ハ養子格之助及び他の四五の門弟に命じて砲術の稽古を為さしめたり、初め格之助ハ玉造の定番同心、藤重良左衛門に就て砲術を学べり、故に今再び之が稽古を為さんとするに当りて、良左衛門の子槌太郎を自宅に聘し、彼に就て専ら銃砲の装置、火薬の調合等を学びたり、而して平八郎ハ則ち曰く、是れ明春丁打を為さんが為めなりと、蓋し毎年二月二十日泉州堺七堂浜に於て丁打を為すハ、是れ当時大阪士衆の常例なりしなり


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