Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.1
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その52
猪俣為治
『朝日新聞』1898.12.1 所収
朝日新聞 明治三十一年十二月一日
大塩平八郎 (六十二) 猪俣生
其十一 陰謀(続)
爾来幾多の門弟ハ頻に平八郎の門に出入せり、而かも【口伊】唔(いご)の声ハ漸く滅却せり、格之助の居宅及び平八郎の隠居所ハ密閉せられたり、時としてハ平八郎が隠居所の庭園に於て丁々木を伐るの音ハ聞えたり、鉄砲の買入ハ為されたり、木砲の製造、火薬の調合ハ始まれり、火箭、棒火箭の細工ハ着手せられたり、白焔硝五十五斤、薩摩硫黄八斤半、棹鉛一貫六百目、灰五百目、鉛三貫目、鵜目硫黄八斤、鷹目硫黄三斤、合薬五斤、松脂三斤ハ庄司義左衛門の手を経て買上げられ平八郎の隠居所に運ばれたり、幅二尺長三尺の台車一挺、及び幅一尺八寸長一尺の台車二挺ハ吉見九郎左衛門に因りて河州在のものゝ依頼に出でたりとの口実の下に天満の樫木職のものに造らしめたり、樫木棒丸さ一寸三分、長さ六尺三寸のもの、及び檜木棒丸さ一寸四分、長さ三尺一寸のもの数十本ハ平八郎の賄向を務めたる大和屋作兵衛に因りて平八郎の邸内に運び入れられたり、守口村の幸右行(衛)門の土蔵の側に在りし大なる松樹ハ伐られて平八郎の門内に輸送せられたり、松木棒十本、樫木棒十本、火打ち石一貫目、火打鉄大小七挺、笋掘鑿(のこぎり)六挺、草鞋二十五足、表五七の桐裏蔦の紋所にて下に二ツ引の印ある提灯二十張、紙草鞋一足ハ幸右衛門之を平八郎の宅に持来れり、其他刀剱武具等、凡そ兵陣の際に於て用ふ可き器具ハ、時々衆多の人に因りて平八郎の門内に携へ入れられたり、平八郎及び其門人等ハ果して何事を為さんと欲するや、彼等の隠居所に出で来るや、其面目常に異りて、其手は悉く黒かりき、仮令山を隔つとも、煙の在る所ハ火の存する所なり、仮令牆(かき)を隔つとも、角の在る所ハ牛の存する所なり、唯世に挙一明三の松平伊豆守なし、是を以て天保の由井正雪が計画
ハ何人も之を知るに至らざりしなり、斯くて天保七年ハ茲に暮れて、天保八年と為れり飢饉ハ一層其害毒を逞うせり、貧民ハ一層其苦痛を増せり、平八郎が元旦の詩に曰く
新衣着得祝新年、
羮餅味濃易下咽、
忽思城中多菜色、
一身温飽愧于天、 *1
一月の末に至りて飢渇の叫声ハ四方に充ち、餓■(がひやう)ハ至る処に累々として横はれり、此に至りて平八郎以為らく、人心を収攬するの時ハ実に今日に在りと、乃ち書賈
河内屋喜兵衛等数人を召して曰く、余の学を好むや常に飲食を菲(うす)うし衣服に節して以て之を購書の資に供し、其書を購ふに当りて、未だ曾て其価を顧みざりしハ亦た諸氏の夙に知る所に載す可きに止まらずして、稀世の珍書亦甚だ少なしとせざるなり、然れども今日ハ擁書の楽(たのしみ)に耽るの時に非ず、因て一切の蔵書を鬻ぎて以て施与の資と為さんと欲す、諸氏宜しく議して之が価を定むべしと、喜左衛門(喜兵衛)等固と平八郎に学べるものなり、故に切に之を止むれども聞かれず、因て書賈等其書を検し、其価を定むるに部数一千二百にして、価六百五十両に上れり、乃ち之を平八郎に納め、且つ曰く、先生若し之を頒つて窮民に施与せんとし玉はゞ、弟子等願くハ之に奔走して以て先生の志を成さんと、平八郎大に喜び、託するに施与の事を以てせり、乃ち喜兵衛等ハ一万枚の切手を製し、人を市中及び近郷に馳せ、窮民探りて普く之を頒布せり、其切手の文に曰く、
■の字
口 上
近来打続き米穀高直に付困窮の人多く有之由にて、当時御隠居大塩平八郎先生ハ一分を以て、御所持の書籍不残御売払被成其代金を以困窮の家一軒に付金一朱づゝ、都合一万軒へ御施行有之候間、此書附御持参にて、左の名前の所へ早々御申請に越し可被成候、
但し酉二月八日安堂寺町御堂筋南え入東側本会所へ同七ツ時御越可被成候
書林 河内屋喜兵衛
同 同 新次郎
同 同 越兵衛 *2
同 同 茂兵衛
総金六百二十五両
而して此一万枚の切手を配布するに当りて、来る十九日の詰朝、再び平八郎の宅に於て施与するを以て、重ねて来るべきを告げたり、飢民ハ此賑恤を受くるや、恰も轍鮒(てつぷ)の水を得たるが如く喜び、歓声洋々として近郷に充ち、之より平八郎の名ハ
益々高きを加へたり、
伝ふる所に依れバ、跡部山城守ハ、平八郎の此挙を聞き、直に格之助を召して、私名を売らんが為に猥に窮民に施与したるものとして、大に譴責を加へたりと云ふ、是或ハ然らん、然れども乱後跡部山城守堀伊賀守の両奉行が、幕府に奉上せる上申書中にハ、左の一節あるを見る、曰く、
山城守組与力、大塩格之助同居養父大塩平八郎儀、当二月上旬当表町人共の内、及困窮難渋罷在候もの多人数へ施行金与遣候事の由、山城守風聞及承、格之助ハ組のものに付、平八郎一己の慈善に候とも、右躰大行の儀に付、山城守に可申聞筋と存、同人限に、同組老分与力荻野勘左衛門を以、平八郎父子存念承糺候処、平八郎が答にハ、兼而聖人之道を学候に付、米穀高直に而諸人難渋いたし候時節にハ、窮民を可救遣儀に可有之候得共不及力候故、所持之書籍売払、一己之施行候儀に而、平八郎儀ハ隠居の身分に付、別段相届候にも及間敷と存、左様取計候儀に而、外に子細無之、父子共心得違恐入候由申之、尤施行も今一日限に而相仕廻候手筈に有之候得共、前書之通察度候儀に付、最早差止候様可仕哉之儀も伺呉候様平八郎申立候旨、勘左衛門申聞候付、右施行金調達方之儀も相分、不審之儀不相聞上ハ、前以申触置候を、俄に差止候而ハ、却而不都合の筋を生可申、今一日之儀に候はゞ、随分穏便に取計可申旨申聞置候
是れ平八郎と山城守との第三回の衝突なり、然れども第三回の時に当りてハ、平八郎ハ既に十分の野心を包有したるものなり、故に第一回第二回の決して拒絶干渉すべきものに非ざるが如く、第三回ハ之を断然禁止すべきものなり、然るに前にハ之を止むるに失し、今ハ之を許すに失す、山城守此際に於ても亦一着を誤まれり、
管理人註
*1 石崎東国『大塩平八郎伝』p161 では、この詩は天保5年正月の作。
*2 「記一兵衛」
幸田成友『大塩平八郎』(創元社 1942)p153 によると、喜兵衛は北久太郎町五丁目、新次郎は同四丁目、記一兵衛(吉兵衛)は南本町五丁目、茂兵衛は博労町に住む。本屋会所は安堂寺町五丁目。
なお、「総金六百二十五両」は施行札には書かれていない。
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