Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.2

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その53

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.2/3 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月二日
大塩平八郎 (六十三) 猪俣生

  其十一 陰謀(続)

既にして平八郎は民心漸く動き、準備も亦稍成るに近きを以て、己の所志を天下に知らしめんと欲して、一篇の檄文を草せり、而して剞厥(きけつ)に付して普(あまね)く之を頒布するに当りて、機事或ハ刻鏤(こくる)の際に漏洩せんことを恐れ、彫工二人を雇ひて己の家に留め、刻板を横断して之を彫鏤せしめ、刻成るの後之を連接して以て印刷せり、而して彫工ハ長く己の家に寄食せしめ、乱を起すの朝に至りて、金十両を与へて之を放てり、故に絶て之を知るものなかりしなり、檄文ハ平仮名文に綴り、西の内紙五枚継に之を印刷し、黄色の薄絹に包み、表に『天より被下候書付村々小前の者共に至る迄』と記し伊勢大神宮の御祓を之に副結し、以て事を発する一二日前に於て、之を近在近国に散布せんと待居れり、亦是れ陳勝呉広の篝火狐鳴に類するものか、其檄文に曰く


朝日新聞 明治三十一年十二月三日
大塩平八郎 (六十四) 猪俣生

  其十一 陰謀(続)

以上ハ是れ平八郎が、満腔の心血を灑ぎて結撰したるものにして、一字一涙の文、一章一火の筆と云ふ可し、之をワルポールに対するピツトの詰責に比すれバ雄姿之に勝り、張九齢に対する陸贄の弾劾に比すれバ剴切之に過ぐ、実に是れコソツトの旧国回復策の抱負に加ふるに、北米独立の檄の規模を以てしたるものなり、而して此天討の檄の他に比して最も特偉なる所ハ、其声調語気の一種犯す可らざる威厳を具へ、恰も神人あり大空の中より宇内(うだい)に号令するの概あるに在り、陳琳の檄の果して頭痛を癒すに足るや否ハ吾人之を知らず、杜甫の詩の果して瘧(ぎやく)を駆るに足るや否やハ吾人之を知らず、然れども一たび此文を読まバ、百世の後と雖も俗吏奸臣必ず卒倒気死するに至る可きを知る、若し平八郎をして一ありて二なきの人たらしめバ、之を外にして世再び此種の文を見ること能はざるべきなり、


檄文」(成正寺版・画像)
檄文」(成正寺版)
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