Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.2
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その53
猪俣為治
『朝日新聞』1898.12.2/3 所収
朝日新聞 明治三十一年十二月二日
大塩平八郎 (六十三) 猪俣生
其十一 陰謀(続)
既にして平八郎は民心漸く動き、準備も亦稍成るに近きを以て、己の所志を天下に知らしめんと欲して、一篇の檄文を草せり、而して剞厥(きけつ)に付して普(あまね)く之を頒布するに当りて、機事或ハ刻鏤(こくる)の際に漏洩せんことを恐れ、彫工二人を雇ひて己の家に留め、刻板を横断して之を彫鏤せしめ、刻成るの後之を連接して以て印刷せり、而して彫工ハ長く己の家に寄食せしめ、乱を起すの朝に至りて、金十両を与へて之を放てり、故に絶て之を知るものなかりしなり、檄文ハ平仮名文に綴り、西の内紙五枚継に之を印刷し、黄色の薄絹に包み、表に『天より被下候書付村々小前の者共に至る迄』と記し伊勢大神宮の御祓を之に副結し、以て事を発する一二日前に於て、之を近在近国に散布せんと待居れり、亦是れ陳勝呉広の篝火狐鳴に類するものか、其檄文に曰く
四海困窮すれバ天禄永く終らん、小人に国家を
治めしむれバ災害並至ると、昔の聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者を御誡被置候ゆゑ、東照神宮(君)も鰥寡(くわんか)孤独において尤あわれみを加ふべく候、是仁政之基と被仰置候、然るに于茲二百四五十年之間、追々上たる人、驕奢とておごりを極め、大切の政事に携り候諸役人共、賄賂を公に授与とて贈貰いたし、奧向女中之【夕/寅】(因)縁を以て、道徳仁義もなき拙き身分にて立身重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫而已に智術を運し、其領分の知行所の民百姓共に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦む上、右之通無躰の儀を申渡し追々入用かさみ候故、四海困窮と相成、人々上を怨みざる者なき様に成行候得共、江戸表より諸国一同、右之風儀に落入
天子ハ足利家以来、別して御隠居同様、賞罰之柄を御失ひ候に付、下民の怨何方へ告愬とてつげ訴ふる方なき様に乱れ候に付、人々の怨気天に通じ、年々地震、火災、山も崩れ、水も溢るるより外色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誡の有がたき御告に候へ共、一向上たる人々心も付ず、猶小人奸者之輩大切之政を執行、只下を悩まし金米を取立てる手段許に打懸り、実以て小前百姓等のなんぎを、吾等如きもの草の陰より常々察し悲み候得共、湯王武王之勢位もなく、孔子孟子の道徳もなけれバ、徒に蟄居いたし候処、此節米価弥々高直に相成、大阪の奉行并諸役人共、万物一体の仁を忘れ得手勝手の政道を致し、江戸へ廻米を致し、
天子御在所の京都へハ廻米の世話も不致而已ならず、五升一斗位の米を買に下り候者共を召捕抔いたし、実に昔葛伯といふ大名ハ、農人の弁当を持運び候小児を殺し候も同様、言語同断、何れの土地にても人民ハ、徳川家御支配のものに相違なき処、如此隔を付候ハ、全く奉行等之不仁に而、其上勝手我儘の触書等を度々差出、大阪市中遊民許を大切に心得候ハ、前にも申通、道徳仁義を不存拙き身分にて、甚だ以て厚ケ間敷不届之至、且つ三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀、并扶持米等を莫大に掠取、未曾有の有福に暮し、町人の身を以大名之家老用人格等に被取用、又ハ自己之田畑新田等を夥しく所持、何に不足なく暮し、此節之天災天罰を見ながら、畏も不致、餓死の貧人乞食をも敢而不救、其身ハ膏梁之味とて結構の物を食ひ、妾宅等へ入込、或ハ揚屋茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑むも同様にいたし、此難渋の時節に絹服をまとひ候河原者を妓女と共に迎へ、平生同様に遊楽に耽候ハ何等の事哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所の奉行諸役人、手に握居候政を以、右のもの共を取締、下民を救候儀も難出来、日々堂島相場をいじり事いたし、実に禄盗にて、決して天道聖人の御心に難叶、御赦しなき事に候、
朝日新聞 明治三十一年十二月三日
大塩平八郎 (六十四) 猪俣生
其十一 陰謀(続)
(檄文の読つぎ)
蟄居之我等、最早堪忍難成、湯武之勢、孔孟之徳ハなけれども、無拠天下のためと存、血族の禍をおかし、此度有志のものと申合下民を悩し苦め候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持の町人共を誅戮に及び可申候間、右の者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠置候俵米、夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内、田畑所持不致ものたとひ所持いたし候とも、父母妻子家内の養方難出来程の難渋のものへハ、右金米等取らせ遣候間、いつにても大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭一刻も早く大阪へ向馳可参候面々へ右米金分け遣はし可申候、鉅橋鹿台の金粟を下民へ被与候遺意にて、当時の飢饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之候ものハ、夫々取立無道の者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ可申候、必一揆蜂起の企とハ違ひ、追々年貢諸役に致迄軽くいたし、都而中興
神武帝御政道之通、寛仁大度の取扱にいたし、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海万民いつ迄も
天恩を難有存、父母妻子を被養、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遣し、尭舜天照皇太神の時代に復しがたくとも、中興の気象に恢復とて立戻申べく候、此書附村々へ一々知らせ度候へども、数多の事に付、最寄の人家多候大村之神殿へ張付置候間、大阪より廻有之 番人共にしられざる様心懸、早々村々へ相触可申候、万一番人共眼附、大阪四ケ所の奸人共へ注進致候様子に候はゞ、遠慮なく面々申合せ、番人を不残打殺し可申候、若右騒動起り候を承はりながら、疑惑いたし馳参不申、又ハ遅参および候はゞ金持の米金ハ皆火中の灰に相成、天下之宝を相失ひ申べく候間、跡にて必我等を恨み、宝を捨つる無道者と陰言を不致様可致候、其為一同へ触しらせ候、尤是迄地頭村方にある年貢等にかゝはり候諸記録、帳面類ハ、都而引破焼捨可申候、是往々深く慮ある事にて、人民を困窮為致不申積に候、乍去此度の一挙、当朝平将門、明智光秀、漢土之劉裕、朱全忠の謀叛に類し候と申者是非有之道理に候得共、我等一同心中に天下国家を簒盗いたし候慾念より起し候事にハ更に無之、日月星辰之神鑑にある事にて、詰る所ハ湯武、漢高祖、明太祖、民を弔君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若疑敷覚候はバ、我等の所業終る処を爾等眼を開て看よ、
以上ハ是れ平八郎が、満腔の心血を灑ぎて結撰したるものにして、一字一涙の文、一章一火の筆と云ふ可し、之をワルポールに対するピツトの詰責に比すれバ雄姿之に勝り、張九齢に対する陸贄の弾劾に比すれバ剴切之に過ぐ、実に是れコソツトの旧国回復策の抱負に加ふるに、北米独立の檄の規模を以てしたるものなり、而して此天討の檄の他に比して最も特偉なる所ハ、其声調語気の一種犯す可らざる威厳を具へ、恰も神人あり大空の中より宇内(うだい)に号令するの概あるに在り、陳琳の檄の果して頭痛を癒すに足るや否ハ吾人之を知らず、杜甫の詩の果して瘧(ぎやく)を駆るに足るや否やハ吾人之を知らず、然れども一たび此文を読まバ、百世の後と雖も俗吏奸臣必ず卒倒気死するに至る可きを知る、若し平八郎をして一ありて二なきの人たらしめバ、之を外にして世再び此種の文を見ること能はざるべきなり、
「檄文」(成正寺版・画像)
「檄文」(成正寺版)
「大塩平八郎関係年表」
猪俣為治「大塩平八郎」目次/その52/その54
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