Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.9

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その54

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.4 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月四日
大塩平八郎 (六十五) 猪俣生

  其十二 反覆者

平八郎ハ百般の準備略整ひ、唯其発すべき時機を待ち居たりしに、恰も好し前西町奉行大久保讃岐守 *1の後任として、堀伊賀守の新に来りて其職を襲ぐあり、従来新令尹の来るや、其同僚の之を伴ひ、遍(あまね)く各組屋敷を巡回するを例とす、是を以て今回伊賀守の来るや、東町奉行跡部山城守之を伴はざるを得ず、因て二月十九日を以て天満の組屋敷に到り、与力朝岡助之丞の宅に休憩すべしと定めたり、抑々朝岡の宅たるや、平八郎の邸と相対して、僅に数十間を隔つるに過ぎざるを以て平八郎之を聞き好機失ふ可らずと為し、乃ち策を定めて同志に告げて曰く、吾党の準備已に全(まつた)し、今ハ唯機会を待つのみ、幸なる哉十九日に於て、両奉行の組屋敷を巡見して、咫尺(しせき)の地たる朝岡の宅に休憩するハ、是れ彼等来りて自ら首を献ずるなり、此際宜しく彼等が不意に起り、彼等を襲殺し、勢に乗じて旗を揚げ、一面にハ奸官汚吏の輩を誅殺して天討を行ひ、一面にハ市中豪商の家を焼き、倉庫を破壊し、其蔵する金銭米穀を散じて以て貧民に分与し、然る後党与を収集して播州の甲山に拠り、以て大に後図を議す可きなりと、衆皆踴躍して快と称す、是を二月十五日の夜と為す、斯くて同志ハ昼夜平八郎の宅に在て、火薬銃砲の整備と檄文頒布の事とに鞅掌し、以て期日の来るを待ちたりしに、何ぞ料らん十七日の夜に到りて、一箇変心者の顕れんとハ、

曾て聞く、世に子メシエスなる悪神あり、常に成功を悪みて失敗を好み、人の事を企つるあらんか、百方之を妨げ、其挫折するを見て以て喜とすと、今や平八郎も亦此神の嫉妬を免るゝこと能はざりき、而して平八郎に対する子メシエスの悪神ハ、彼れの旧門弟たる平山助次郎に憑(よ)りて顕はれ来れ り、

平山助次郎ハ東組与力 *2 にして同志の一人なり、今や遽(にはか)に初心を変じ、十七日の深更に於て、跡部山城守の邸に至り、用役野々村平次 *3に因りて、山城守に面会し、具に平八郎の密議を告訴せり、 山城守之を聞て、一たびハ則ち大に驚けりと雖も、未た輙(たやす)く之を信ぜざりき、助次郎曰く、既に大事を告ぐ、彼等之を知らバ必ず我を害せん、願くハ身を処するの方を教へられよと、因て山城守ハ一書を艸して助次郎に附して曰く、汝此書を持して江戸に赴き、前大阪東町奉行矢部駿河守に呈し、且つ事情を具陳すべしと、乃ち陽(いつは)りて京地に急用ありと称して、直に彼を江戸に出発せしめたり、吾人ハ今彼れが江戸に到りて、如何に白状せしかを示さんが為に、矢部駿河守が御用番御老中に出したる伺書の中より、其一節を抜萃すべし、無節の小人が自己の罪を免かれんが為の白状なれバ其信ずるに足らざるハ固より言を俟たざるなり、


管理人註
*1 堀伊賀守は矢部駿河守の後任で、大久保讃岐守の後任は跡部山城守。
*2 平山助次郎は、同心。
*3 天保八年の「御役録」によると、「御公用人」は野々村治平。


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有働賢造「川路聖謨と大阪」(三度目町巡見之次第)
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