その61
『朝日新聞』1898.12.14 所収
朝日新聞 明治三十一年十二月十四日
大塩平八郎 (七十三) 猪俣生
吾人ハ此に至りて、姑(しば)らく平八郎が敵手たる城代及び奉行の動静、及び其何が故に防禦を延引したるかを観察せざる可らず、
今日払曉、山城守ハ伊賀守より英太郎八十次郎等の密訴の報を得、次で自己の邸内に於て小泉淵次郎の殺戮、瀬田済之助逃走の変あるや、乃ち一方にハ使を伊賀守に発して、急に東奉行所に来らんことを求め、他方にハ平八郎の伯父たる同組与力大西与五郎に命じ、平八郎に順逆の理を説て自殺を勧め、彼れ若し聴かずんバ必ず刺殺して以て君恩に報ずべきことを以てせり、是れ平八郎を逮捕するハ事極めて難く、且つ大西与五郎ハ彼れの伯父たるを以て、自殺勧告の事或ハ成らんと信じたるなり、元来大西与五郎ハ性極めて怯懦にして、初め平八郎が格之助を以て此挙に加盟すべきを勧むるや、彼れ逡巡して之に応ぜざりしが、今此命を受るに当りて大に驚きて以為らく、我豈平八郎の敵ならんやと、因て病に託して家に臥し、先づ養子善之進を遣はして、平八郎の動静を窺がはしめしが、大に其威勢を畏怖して、二人終に手を携へて遠く遁逃せり、斯くて堀伊賀守来りて山城守と共に此事を議するや、早くも既に一声の号砲ハ轟然として天満の天に響き、数条の黒煙ハ払々として与力組屋敷辺に昇騰するを見る、二人喫驚、計の出る所を知らず、急遽狼狽、直に城代土井大炊頭 の許に至り具に事の顛末を禀告し、且つ兵衆を以て之を制するに非ずんバ、到底当る可らざるを説きて其許可を得たり、且つ山城守ハ自己配下の与力同心、過半ハ平八郎に与みし、大に防禦の便を欠くを以て、援兵を乞ひたるに因り、土井大炊頭 ハ城(定)番遠藤但馬守に通報して、其配下の与力同心 を山城守に仮さしめたり、是に於て土井大炊頭ハ在阪の諸侯に告げて出兵を促がし、且つ汗馬を近国の諸侯に飛ばして其援兵を乞へり、試みに当時大阪城の警備の一斑を記せバ左の如し、
追手口 城代土井大炊頭 七百人 追手口門外 城代家来 二百人 乾の方 大番頭菅沼織部正同組支配 百八人(八百人?) 坤の方 北条遠江守同組支配 八百人 玉造口内 定番遠藤但馬守 五百人 城外京橋口 一加番大井能登守*2 五百人 城内青屋口 二加番井伊右京亮 五百人 城内雁木阪口 三加番米津伊勢守 三百五十余人 同 四加番小笠原信濃守 三百五十余人 本町口 船手奉行本多大膳 未詳此外に猶ほ破損奉行あり、材木奉行あり、鉄砲奉行あり、弓矢奉行あり、具足奉行あり、蔵奉行あり、代官あり、皆大馬印、小馬印、吹貫、籏、幟、大纏、持弓、持筒、大筒、長柄の槍等を用意して各自の持場を固め、近隣の諸侯も亦大阪に大火あるを聞き、大阪城を守護せんが為に警報を待たずして陸続駈け来れり、昇平二百年間、目に鎗戟の光を見ず、耳に砲銃の声を聞かざる遊惰奢侈のヴアニチー、フエーアの中に於て、元和元年夏陣以来の大変動を顕出し来る、上下狼狽、闔国騒擾、人 人をして殆ど手を措く所を知らざらしむるもの、豈怪しむに足らんや、