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2000.10.18

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その60

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.13 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月十三日
大塩平八郎 (七十二) 猪俣生

  其十四 大破裂(続)

平八郎乃ち命じて、近傍の居宅に火を放たしめ、且つ八百目の木砲を以て、建国寺を望んで射撃せしめたり平八郎の意に以為(おもへ)らく、建国寺ハ東照公を祭る所の廟にして、火災の虞ある毎に、城代及び奉行ハ之を警護せんが為に出馬するを例とするが故、今此建国寺を焼き、城代奉行等の来るを待ちて、之を掩殺せんと計りたるなり、然るに火勢猛烈、煙焔寺院を埋むるに至れども、終に奉行等一人の出で来るものなし、因て南に進みて彼等の邸宅に迫らんと欲し、衆を分ちて三隊と為し、先鋒ハ格之助を将として、庄司儀左衛門 大井正一郎を副とし、中隊ハ平八郎自から之を帥(ひき)ゐ、宮脇志摩*1渡辺良左衛門 近藤梶五郎等之に従ひ、而して瀬田済之助ハ後殿の将と為り、橋本忠兵衛 白井常右衛門 *2 等ハ輜重を指揮して之に従ひ、全隊堂々として南に向ひ進む、乃ち到る所、士邸町家を択ばず、神社仏閣を問はず、頻に火箭を放ち、砲丸を飛したるを以て、煙火払々として数ケ所に騰れり、此日や朝来些の風なく、仲春二月、唯寒気の稍人を襲ふに過ぎざりしのみ、然るに巳牌に到りて西風遽に吹起り、益々火煙を煽りて其勢ひを助けたるを以て、看る看る東天満ハ全く火界と為り、拉々雑々として棟傾き屋(やね)倒れ、砲声ハ火声と和し、人声ハ風声と応じ、士民の狼狽、老若の叫喚、其紛乱名状す可からざるものあり

党衆ハ進みて天満橋に到れバ、京橋口の守備警戒甚だ厳にして、橋も亦切断せられたるものゝ如し、因て流に沿ひて西に転じ、行々砲を放ちて天神橋に到り、渡りて中央に到れバ、橋の南端数軒、亦既に切断せられたり、平八郎之を見るや大に怒りて曰く、咄(とつ)奸賊、畏避して敢て出でず、斯の卑怯の行を為すと、乃ち更に途を西に取りて進み、且行々衆をして大声に呼ばしめて曰く、老幼ハ避けて禍を免かれよ、壮者ハ来りて力を戮せよと、是より先き党与漸次に増し、此時に至りて既に五百人に超えたるを以て、鋭気益々加はれり、然れ共未だ奉行等一人の来りて之を防ぐ者あらざりし、

進みて難波橋に到り、先づ橋上より前岸の市街に発砲して敵の有無を探り、橋を渡りて北浜二丁目に出で、鴻池三郎兵衛の家を焼き、次に一丁目に出でゝ、島屋市十郎 *3の家を毀ちて金穀を四散し、更に進みて今橋二丁目なる鴻池善右衛門の家に至る、時に全家鼎沸(ていふつ)して家財を運ぶに急なり、平八郎乃ち麾して曰く、汝等速かに此を去れ、迷を取りて死を求むる勿れと、人々猶彷徨として倉を鎖(とざ)し財を搬ばんとす、是に於て砲を発ちて其人々を逐ふ、時正に午の刻に際せるを以て、齎(もた)らす所の餐を伝へ、此に休憩すること少時なり、然れども未だ奉行等一人の来りて之を防ぐ者あらざりし、

既にして此を発するや、倉庫を破壊し家屋を焚燬して其一棟をも遺すことなし、更に進みて鴻池他次郎 *4 同庄兵衛 同徳兵衛の家を壊り、南行して高麗町 *5 に至り、三井及び岩城の呉服店、島屋八郎右衛門の居宅を毀ち、愈々進みて平野町なる内田惣兵衛 平野屋彦兵衛 同佐兵衛 米屋喜兵衛 炭屋彦次郎の家屋倉庫を破壊焼燬し、其金銀米穀を揮霍(きかく)散布せり、此時に至りて全都乱擾益々甚し、然れども彼れ奉行等尚ほ未だ一人の出で来りて之を防ぐものあらざりし、


管理人註
*1 宮脇志摩は、この場にはいない。
*2 白井孝右衛門。
*3 島屋市兵衛のことか。
*4 鴻池駒次郎のことか。
*5 高麗橋。


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