その64
『朝日新聞』1898.12.17 所収
朝日新聞 明治三十一年十二月十七日
大塩平八郎 (七十六) 猪俣生
平八郎の党与ハ退きしと雖も、其重立るもの未だ逮捕に就かざるを以て、人心恟々訛言百出し、或ハ東より襲ひ来ると恐れ、或ハ西より集れりと危ぶみ、人々一人として火を消さんとするものなく、唯戒心を事とするのみ、城代大炊頭ハ更に部下の兵卒及び近藩の援兵を以て、町内の各要所及び吹田、守口、鴨野、平野川口、堺等に分配し専ら平八郎の党与の逃脱に備へ、又京都所司代松平伊豆守、及畿内中国の列藩に移書して之が警備を乞り、猛火と烈風ハ平八郎に代りて益々其侵劫を恣まゝ にし、東西に蔓(はびこ)り南北に移りて、其勢ひ当る可らず、十九日の夜を徹して消えず、二十日の昼に及びて益々猛烈を加へ、恰も是れ火神風伯、大阪市民の積年の奢侈遊惰に耽りたるを怒りて、全街を燼滅すること、ソトム、ゴモラの如くせざれバ飽かざるものゝ如く、船場に於てハ、北ハ北浜より西ハ中橋通に及び、南ハ安土町より東ハ東堀一円を焼き、天満に於てハ、西ハ堀川辺より東方全街を火と為し、上町に於てハ、北ハ八軒家より西ハ東堀思案橋に及び、橋南ハ東隅の家宅を焼きて南に走り、以て番所の北に及び、西町奉行所ハ幸ひに西の一方を残したるも、東の方面ハ松屋町通本町通より、東の方谷町通の南側を焼き、以て北の方東町奉行所に及び、将に大阪一円を焦燼せんとするの勢ひあり、然るに二十日の夕刻に至り、風歇(や)み雨催し、戌牌に至りて沛然(はいぜん)たる大雨となりたるを以て、火勢稍(やゝ)衰へ、二十一日寅牌に至りて火ハ弓町小村屋敷に移りしが、卯牌に至りて全く鎮火せり、見渡せバ一炬蕩燼の跡、東西七百六十五間南北千十間にして、全市四分の一以上に亘れり、其焼失せる所のものを挙ぐれバ左の如し
街巷 百十八丁 村邑 川崎村 家数 三千三百八十九 竃数 一万二千五百七十八 空屋 千三百六 土蔵 四百十一 穴蔵 百三 納屋 二百三十 寺院 十一 道場 二十二 神社 三 橋 五 武家屋敷 百三十五 神主并社家屋敷 十 蔵屋敷 五 用場 五 仏堂 二十六 牢屋敷 一嗚呼路易(ルイ)十六世の死後の洪水ハ、暗々裏に欧州を震蕩するもの五十年、平八郎の生前の大火ハ、明明地に大阪を焚燬(ほんき)するもの一万戸、彼ハ革命軍の暴虐を詛ふて命を失ひ、此ハ奉行の圧制を怒りて命を殞す、其趨舎自から異なりと雖も、其板蕩の 惨、侵劫の害、誰か之を見て酸鼻せざるものあらんや、