Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.24

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その64

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.17 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月十七日
大塩平八郎 (七十六) 猪俣生

  其十四 大破裂(続)

平八郎ハ淡路町の堺筋に退き、顧みて其衆を数ふれバ、僅に八十余人を余すのみ、而して皆疲労困憊、復た起つ可らず、平八郎慨然として衆に謂て曰く、此挙や計謀錯誤して事倉卒に出で、遂に素志を果すことを得ずと雖も、然れ共克く一旅の衆を以て全市を震撼し、彼姦吏富豪の輩をして、肝裂け胆砕けしむるに至りたるハ、聊か以て自ら慰むるに足れり、上下此に省みて今より其心を悛め、奢侈を禁じ驕傲を戒め、民を愛し政を寛にするあらバ、世道復た地に墜ちざるを得ん、今に至りて強戦するハ益なし、吾固より別に為す所あらんとす、但諸君が義の為に身を忘れ、此挙に加盟して粉骨韲身(さいしん)、今に至りたるの厚志ハ固より余が深く 謝する所にして、天下亦其志を諒とする者あらん、他日期あらバ請ふ再び相会せんと、乃ち其衆を解散し、己ハ格之助、瀬田済之助、渡辺良左衛門、庄司儀左衛門、白井幸右衛門(孝右衛門)、西村利三郎、高橋九右衛門、松田郡次、大和屋作兵衛、植松周次、忠兵衛、源右衛門、仲間三平等数十人と八軒家に逃がれ来れり、適々一隻の小船、岸に繋がるあり、楫夫を嚇かして之に乗じ天神橋辺に到り、後事を忠兵衛に託して窃に上陸せしめ、己等ハ即ち脅掠破壊を風火に委して其踪跡を晦ませり、時既に戌牌(じゆはい)なりき、

平八郎の党与ハ退きしと雖も、其重立るもの未だ逮捕に就かざるを以て、人心恟々訛言百出し、或ハ東より襲ひ来ると恐れ、或ハ西より集れりと危ぶみ、人々一人として火を消さんとするものなく、唯戒心を事とするのみ、城代大炊頭ハ更に部下の兵卒及び近藩の援兵を以て、町内の各要所及び吹田、守口、鴨野、平野川口、堺等に分配し専ら平八郎の党与の逃脱に備へ、又京都所司代松平伊豆守、及畿内中国の列藩に移書して之が警備を乞り、猛火と烈風ハ平八郎に代りて益々其侵劫を恣まゝ にし、東西に蔓(はびこ)り南北に移りて、其勢ひ当る可らず、十九日の夜を徹して消えず、二十日の昼に及びて益々猛烈を加へ、恰も是れ火神風伯、大阪市民の積年の奢侈遊惰に耽りたるを怒りて、全街を燼滅すること、ソトム、ゴモラの如くせざれバ飽かざるものゝ如く、船場に於てハ、北ハ北浜より西ハ中橋通に及び、南ハ安土町より東ハ東堀一円を焼き、天満に於てハ、西ハ堀川辺より東方全街を火と為し、上町に於てハ、北ハ八軒家より西ハ東堀思案橋に及び、橋南ハ東隅の家宅を焼きて南に走り、以て番所の北に及び、西町奉行所ハ幸ひに西の一方を残したるも、東の方面ハ松屋町通本町通より、東の方谷町通の南側を焼き、以て北の方東町奉行所に及び、将に大阪一円を焦燼せんとするの勢ひあり、然るに二十日の夕刻に至り、風歇(や)み雨催し、戌牌に至りて沛然(はいぜん)たる大雨となりたるを以て、火勢稍(やゝ)衰へ、二十一日寅牌に至りて火ハ弓町小村屋敷に移りしが、卯牌に至りて全く鎮火せり、見渡せバ一炬蕩燼の跡、東西七百六十五間南北千十間にして、全市四分の一以上に亘れり、其焼失せる所のものを挙ぐれバ左の如し

嗚呼路易(ルイ)十六世の死後の洪水ハ、暗々裏に欧州を震蕩するもの五十年、平八郎の生前の大火ハ、明明地に大阪を焚燬(ほんき)するもの一万戸、彼ハ革命軍の暴虐を詛ふて命を失ひ、此ハ奉行の圧制を怒りて命を殞す、其趨舎自から異なりと雖も、其板蕩の 惨、侵劫の害、誰か之を見て酸鼻せざるものあらんや、


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