その63
『朝日新聞』1898.12.16 所収
朝日新聞 明治三十一年十二月十六日
大塩平八郎 (七十五) 猪俣生
格之助ハ先刻より一隊を率て上町に進み入り、到る処火を放ち、在る所屋を毀ち、頗る勢ひを擅(ほしい)ままにせしが、今や伊賀守の一隊の来るを見て、好敵手逃す可らずと為し、連(しき)りに鉄砲を発して之を 突撃す、馬駭きて伊賀守地に落つ、其兵之を見て大に潰(つい)ゆ、伊賀守勇を鼓して馬に上り、再び兵を督して奮戦数刻に及ぶ、格之助の衆心猛なりと雖も、朝来の進撃に疲憊し、今生兵に当るの甚だ難きを知り、退いて淡路町の本陣に合す、伊賀守ハ其或ハ計(はかりごと)あるを恐れて之を追はず、西奉行所并に牢屋敷を点検せんと欲して、路を転じて松葉町に到りしも此事なきを見、再び本町橋に進み行けり、
平八郎ハ乃ち格之助と合して一隊と為り、庄司儀左衛門 渡辺良左衛門等を先たゝしめ、格之助等を殿(しんがり)たらしめ、自から衆を督して平野町に向ふ、時偶々山城守の来り近づくあり、平八郎曰く奸賊山城自ら来りて首を献ず、今日の戦彼を得て甘心せんのみと、怒髪天を衝て衆と共に突進す、山城守逆(むか)へ戦へども、衆皆敵手の気鋭なるに辟易し橋を渡りて内淡路町に退却す、但し玉造より来れる援兵ハ、独り止まりて殿戦甚だ力(つと)めたり、而るに両軍の放つ所の弾丸、多くハ逸して空を撃つ、
此時平八郎の隊中に彦根藩士梅田源右衛門あり、最も砲術に長ず、今朝以来の発砲、概ね彼の司とる所にして、功を収むること少からず、今や玉造の兵防戦甚だ力め、我兵動(やヽ)もすれバ逡巡の色あるを以て大に憤激し、一撃の下に彼等を鏖殺(ちうさつ)せんと欲し、自ら砲口に進み屈身して薬を装ひ火を点せんとするの際、阪本鉉之助 本多為助等並び進みて共に銃を源右衛門に擬す、源右衛門の銃卒之を見るや、亦身を火防用水桶の側(かたはら)に潜めて以て銃を鉉之助に擬す、為助之を知り急に鉉之助を警むれども彼れ未だ覚らず、是に於て銃口を転じて源右衛門の銃卒を撃たんとす、実に是れ四人四様の動作、三人一時の狙撃にして、其危機髪を容る可らざるものあり、忽ち見る源右衛門既に斃れて地に在り鉉之助の陣笠も亦打抜かれたり、為助の丸(たま)独り逸して中らずと雖も、鉉之助の丸殊に功を収むること多かりき、
源右衛門既に斃るゝや、玉造の兵大に乗じ、山城守亦勢ひを得て返り戦ひ、彼我奮闘稍(やヽ)時を移す、平八郎の党与其利ならざるを見て、砲銃を委棄し途を奪ひて淡路町の堺筋に退く、山城守等亦敢て追はず、道に遺したる槍を拾ひ、之に梅田源右衛門の首を貫き、行々衆をして街巷に大呼せしめて曰く、賊魁既に戮に就く、汝等之を安んぜよと、共に率て東町奉行所に帰れり、時既に黄昏(くわうこん)なり、