Я[大塩の乱 資料館]Я
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2000.10.25

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その65

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.18 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月十八日
大塩平八郎 (七十七) 猪俣生

  其十四 大破裂(続)

是に於て城代土井大炊頭ハ、先づ市民に向て安堵の令を布き、急に道頓堀の演劇場を以て賑恤場に充て、次で天満橋の南北、及び天王寺村の元蔵跡へ仮小屋を設け、以て窮民を此に招きて大に官米を発し、粥を炊(かし)ぎて之を賑はせり、当時此に来りて食を乞ふもの三千百余人に及び、市中の豪戸 富家も亦之に傚(なら)ひ各米銭を醵集(きよしふ)せしに、銭一万七千三百貫、米八十余苞に達せりと云ふ、嗚呼曩(さき)に有司豪商をして此賑恤の事あらしめバ、今日豈此大禍災あらんや、今や有司豪商ハ侵刧焚燬の大害を蒙りたる後に於て、更に賑恤を為さゞる可らざるに至れり、是に至りて倉廩匱乏の口実何れにあるや、奉行禁止の託言何れにあるや、畢竟するに 天公ハ厳酷なる債権者なり、還す可き時に還さゞる時ハ、遂に加倍の息子を附して還さゞる可らざるに至る、世上天に対して債を負ふもの、豈慎まざる可けんや

猛火ハ鎮まれり、烈風ハ歇(や)めり、然れども平八郎及び其党与の重なるものハ、何れに逃れ何れに匿れたるや、杳として其消息を知ること能はず、是を以て大阪近郷ハ警備厳重にして、一々行人を誰何し、且つ近国の諸侯も亦兵を出して各要害を固めたり、乞ふ左に其一斑を記さん、

先づ郡山侯及び奈良奉行ハ暗峠及び生駒越を固め、小泉侯ハ鳴川越国分峠十三峠御池越を固め、膳所侯ハ勢田を固め、高取侯ハ竹内峠金山を固め、代官上村六郎 *1 ハ宇治を固め、代官石原清左衛門ハ大津を固め、禁裏御所ハ禁裏御附組之を警衛し、二條の城ハ所司代松平伊豆守之を守り、伏見の船場ハ伏見奉行之に備へ、伏見街道ハ京都両町奉行之を戒め、淀の大橋小橋木津川口及び牧(枚)方ハ淀侯、八幡橋本丹波口向日明神前山崎及び嵯峨ハ所司代組、西国街道ハ高槻侯、能勢及び中山ハ尾崎侯、伊丹池田三越及び勝尾ハ三田侯、兵庫太山寺越丹波越及び神戸ハ明石侯、西国街道筋ハ姫路侯之を固めたり、潮見山山中宿粉川越八軒大手熊野焼山越大冬及び紀海の港湾を警備するものハ紀伊大納言なり、貝塚及び大和橋を警備するものハ岡部内膳正なり、松阪を警備するものハ尾張大納言なり、田尻山田及び宮川を警備するものハ桑名越中守なり、関及び阪の下を警備するものハ藤堂和泉守なり、堺北の口を警備するものハ曲淵甲斐守なり、一の所司代、二の代官、五の奉行、十六の諸侯ハ、六十門の大砲と八百挺の小銃を大阪四方五十里の間、六十有余ケ所の要害に装置し、一万五千人の兵卒人夫等ハ、昼夜休息することなくして平八郎の党与を探索し、且つ白銀一百枚の賞典を懸けて天下に向つて平八郎格之助の首を募れり、茲に至りてハ手習鑑中の松王丸の所謂「蟻のはふべき穴もなき」もの、平八郎仮令九天の上に翔り、九地の下に潜むも、決して此張目飛耳の偵察を免かれ難くぞ見えたりける

是に於て平八郎の党与中、或ハ縛に就くもの、或ハ自殺するもの、或ハ自首するもの前後数十人に及べり、然れども巨魁平八郎及び格之助の踪跡未だ分明ならざるを以て、人々甚だ危懼し、火災後既に旬日を経過すと雖も、市民一人として灰燼を掃除して家宅を営まんとするものなし、有司之を憂ひ、湯屋理髪店及び辻々に触書を出して、此回の挙に関する一切の評言を禁じ、且つ頻に演劇 遊芸等を奨励して以て人心を慰安することを勉めたり、左に記する所ハ当時の令達の一なり、

亦以て当時大阪の有司の人心を慰撫するに苦心したるを知るに足らん、然れども是れ決して恠(あや)しむに足らざるなり、何となれバ大阪の一挙の各国に伝播するや、瀕死の窮民ハ福音として之に耳を傾け、不仁の有司貪婪の豪家ハ凶兆として之を怖れ、日本全国の人心を挙げて喜憂の間に動揺するに至りたれバなり、当時幕府も亦左の令を下せり、 昔ハ東門火を失して災池魚に及べり、今ハ大阪大火ありて諸国の窮民却て轍鮒の苦を免がるゝを得たり、是豈平八郎の賜に非ずといふを得んや、


管理人註
*1 上林。


大塩事件勃発当時の諸国警備
「御触」(乱発生後)その1
大塩平八郎関係年表


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